DAY BY DAY
12月31日 am1:00 2000年、そして20世紀最後の日。今から寝て起きたら本当に最後の日だ。だからって特別な感慨があるわけじゃない。世の中もさほど盛り上がっているとは思えないし。
僕は1月9日まで休みなのでのんびりと過ごす予定。それにちょっとホームページを手直しするよていもあるし。
それから、17日に書いたバナー広告はやめようと思う。あんまりデザインのよいものもないし。なんだかこのホームページにはそぐわないような気がする。気が変わったらまたやるかも知れないし、一つか二つは残すかもしれない。まあ、お正月中に良く考えて決めるつもり。
それでは、このサイトを訪れたみなさん、よいお年を。来年はもっともっと充実させます。
デジタルカメラの情報と、キューバの写真の紹介をするつもり。
A HAPPY NEW YEAR 200112月17日 バナー広告を張り付けました。バナー広告については以前からオファーがありましたが、迷ってました。ただ、やはりこのホームページもひとつのメディアとして考えた場合、広告がどのような意味を持ち、どのような効果があり、どのようにこのホームページに反映するかは、やってみなければわからないので、トライしてみることにしました。
例えば、この文章の上の東急のバナー広告。これがあるのとないのとでは、この日記の意味が変わってしまうのでは、とさえ思えます。ちらちらと広告が呼んでいるすぐそばで、プライベートな文章はどんな感じで読めるのでしょうか。
あと、何本かは載せる予定ですが、張り付ける場所などはいまのところ実験中です。御意見などありましたら、お聞かせください。
12月13日 12月20日に発売される小松千春写真集「VOYAGE」の制作ノートの一部を紹介してます。どうぞお読みください。
12月7日
20世紀もあとわずか。といっても毎年繰り替えされる、大晦日と元旦の、区切りとしての感傷とどのくらい違うのだろうか。呆気無く21世紀に突入するんだろうな、て思う。1999年から2000年のほうがちょっとばかりワクワ藤せんせいの茶番。そうそうオリンピック。うん、高橋には感動した。でもただの有名人で終わって欲しくないな。来年走れるのだろうか。K-1のジェロム・レ・バンナはすごい。10日どうなるだろう。などと、スポーツ新聞のような僕の頭は、あとわずかの年末を、残された時間を、中途半端な気持ちで過ごしている。
12月1日
ひさしぶりのバリ島は、すっかり変わっていた。いや前回行った3年前は、ヌサドゥアとウブドゥ周辺にしか行、少なくともバリの住民は豊かになっていることは確かだった。なかでも、シモンのドライバーが、彼のことは10年ぐらいまえから知っているが、今回はじめて、彼が日本語を話しはじめたことに驚いた。
11月23日
明日、24日から28日まで、週刊プレイボーイの仕事でバリ島にロケ。モデルは、R.Mさん。来年そうそうには発表されるので、お楽しみに。このところアジアと言えば、ベトナムにばかり行っていたので、バリ島はひさしぶり。あれ、このことは前回も書いたよね。
ベトナムでの写真集は、小松千春嬢。12月20日発売で、今アートディレクターのHARAさんが構成とデザインの真っ最中。ほとんどできている叩きだいを見せてもらった。僕の今年のベストフォトだと思う。
今年も、もう少しでおしまい。ということは、20世紀が終わってしまうっていうことだ。来年は2001年。2001年というと30年以上前に見た映画、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のことを考えてしまう。あの当時、まだ20代そこそこだった僕が銀座にあったテアトル東京の巨大なスクリーンで見た、衝撃は、今ビデオであの映画を見ても伝わらないだろう。
あの当時はるか未来の2001年には、確実に人間を取り巻く環境はSFであり、スーパーコンピューター、HALは人間なみの知能を獲得していた。まだPAN-AMという飛行機会社存在していて、宇宙船はPAN-AMだった。今になってなによりも感慨ぶかいのは、あの当時60年代で描いていたビジョンに、現実の科学は追いつけなかったことだ。政治的にはビジョンよりはるかに進み、社会主義があっけなく崩壊したけれど。科学も政治も、すべてが経済学からなりたっている現実。今の人間にとって宇宙船1台を飛ばす費用対効果が全人類のGPDとバランスが取れなくなっているのだろう。ソ連だってそれで崩壊したわけだから。
しかし、テレビでのコマーシャルでもやっているけど、携帯電話やパソコンの大衆化はある意味、60年代のビジョンより進んでいるかもしれない。あの時代から考えたら、人類はテレパシーを獲得したようなものだ。
それが、ベトナムのような開発途上国で、すでに日本と同じように進化している驚き、いったい21世紀はどうなるのだろう。
11月15日
ベトナムロケから帰って数日はぼんやりと過ごした。といっても日本を空けていたのでやることは山積。めちゃくちゃ忙しかった。やっと最近シャンとしてきた感じだ。今月末は、短いけれどバリ島にゆく。バリ島にはシモンという、中国系インドネシア人のコーディネーターがいる。彼はけっこうやり手で、今ではいくつかのミニホテルを持っている。僕はバリには、もう20回ぐらい行っていて、いつもシモンに仕事を手づだってもたらっていたが、最近は、ベトナムに凝っていたので彼とはとんとごぶさただった。再会するのが楽しみだ。
こんど長期ロケに行く時には、このホームページのアップロードを現地からやってみたいと思っている。当然写真も載せて。今月のバリ行きは短いので無理だけど。
11月10日
9日の続きの文章。先に11月9日を読んで下さい。
今回の撮影は、ベトナムのリゾート、H・C・M・Cからジェットで約45分のニャチャンで、一部行った。1994年に初めて行ったニャチャンは、ホテルの前の海岸には、日中は外国人しか横たわっていなかったが、あれから毎年のように訪れるここニャチャンはすっかり、ベトナム人のリゾートになってしまった。それが悪いわけではないが、以前程エキゾチックなイメージはなくなった。それというのも、ニャチャンの海岸の西側、飛行場のすぐちかくに、アナマンダラという高級リゾートホテルができ、それはチャンパ様式の建物で、ハッキリ言えばインドネシアのバリ島と同じような様式なので、例えば海岸のパラソルは、藁葺きのどっしりしたタイプになっている。以前はビーチのほとんどが、彩色した鉄の骨組みで、パラソルの色もカラフルで、もっと洒落たイメージだった。その影響だろう、なんだか僕にとっては、ベトナムと言うより、バリみたいで少し残念だ。
ニャチャンのどこに行っても人が多いので、車で1時間半、ボートで3、40分ぐらいかかる砂丘に行くことにした。ロケハンではスムーズにその砂丘に船で行けたが、本番の撮影のときには唖然とした。なんと、チャーターしてあったボートは沖合い遥か数百メートル先、小型の手こぎボートでさえ50mもさきに鎮座している。大潮で、すっかりその遠浅の海は、干潟と化していた。僕たちはそれでも行くしかなく、どろどろの干潟を荷物をかついで進んだ。なによりも割れた貝で裸足の足の裏が痛い。それでもどうにか手漕ぎボートまでたどりつき、荷物を載せ、沖合いの船まで押しながらすすんだ。
船に全員乗り込み、ロケハンしたときよりは風があるが、快適な内海を進む。そして僕らは、再び唖然とする。船が止った場所は、砂丘のある海岸まで、遥か300m。しかも僕が主張したのに手漕ぎ船はもってきてない。あるのは一寸法師が載るような、竹で編んだお椀方のボート。船からおりると、水深は腰ぐらい。足下はさっき以上に痛い。
しかし行かないわかには、いかないので、全員意を決して歩き出した。まるでベトナム戦争のアメリカ兵のように、荷物を担いで永遠に歩く。途中で何かを踏んで足が痛くなる。しかし荷物を担いでいるので確かめることができない。やっとのことで岸についた。汗びっしょり。これから撮影をするなんて、というぐらいすっかり疲労困ぱいした。もっとも、今となっては良き思いでだ。
11月9日
ついに10月は1回も、書くことができなかった。最後が9月の7日だからまる2ヶ月さぼっていたことになる。その間なにもしてなかったわけではなく、なにかと忙しくてなかなかここを開くことができなかった。10月11日から31日までベトナムにいた。初め来年出す予定のベトナムの写真を撮ることが第一の目的だったが、9月に、ある女優の写真集をベトナムで撮ってみようということになり、その準備やなんやかやで、PCには集中できなかった。それと、沼津の僕の友人の美容院、”の”の撮影を8月にしたけれど、そのポスターや、パンフレットのこと、そして簡単なお店の紹介のホームページを僕が作ると言ったため、Macに向かうと、そちらのほうに気が注がれ、簡単な文章もなかなか書く気になれなかった。そればかりか、ベトナムにデジカメ、CANONのEOS D30をもっていくことにしたので、ノートパソコンが必要になり、Macは大きすぎるので、ウインドーズmeのIBM,ThinkPad i Series 1620を買ってしまった。それが、それが僕にとっては大きな問題だった。Macでさえ、中途半端な知識で使用しているのに、windowsはMacみたいないい加減な使用の仕方ができなかったのだ。初めからウインドウズのひとは問題ないかもしれないが、止らないと思っていた、ウインドウズはがまるでMacのようにすぐにフリーズする。ノートパソコンはそういうものらしい。実際なじめず、調子が悪く、3台目にして落ち着いた。ビッグカメラは、僕のクレームを素直に聞いてくれて、とてもサービスがよかった。ベトナムでは、レンタルサーバーを当地で借りたので、E-mailもインターネットもスムーズに使用できた。1月20$。国内の電話代はただみたいだった。ホテルによっては一銭も請求されなかった。こんかいは、H・C・M・Cみ住むフランス人の家などを借りて撮影した。実はnudeの撮影だったのだ。12月20日ごろ発売されるので、興味のある人は買って下さい。今年のベトナムは大洪水で、使者が200名以上もでたって言う話だ。そのためメコンデルタは、9月中は道路が分断されていてカントーまでは行けないという。しかし僕らが訪れた10月中旬は、道路網は完全に復旧していた。ミトーのあたりから水田はまるで巨大な池のようになっていて、洪水の被害は大きかったが、床上浸水している家も、こんなこといったら悪いが、さして家財道具があるわけじゃないので、水さえ引けば、またもとの生活に戻るような気がした。日本の友人がずいぶん心配してくれたが、日本の洪水のように特別のことではなく、あるいみ日常なのかなって思えた。水かさはどこも多く、1000メートルもある川幅いっぱいに濁流のように水は流れ、横断するフェリーボートの船長は離岸や着岸をさすがプロのテクニックって言う感じでこなしていた。10月の17日までは、天気もぐずついていて、いつものベトナムとは思えない程、過ごしやすかった。18日から25日まで天気は最高で、その時でさえ気温や湿度も適度で、ベトナムをこんなに快適に過ごすのは初めてだった。今回はロケハンを入れるとカントーを二回、ニャチャンも二回訪れた。カントーに行くには依然だったら、フェリーボートを二回乗り継ぐ必要があったが、オーストラリア資本で巨大な吊り橋が完成したので、カントーもずいぶんと近くなった。
カントーといえば、メコンデルタの心臓部、水上市場が有名だけれど、陸上の道路の発達するにつれて、水上市場は以前からくらべると随分規模が小さくなった。それも時の流れ、しかたがないことだ。(この続きはまたあとで)
9月7日
9月2日にキューバより帰ってきた。今回は前とは少し違った印象だった。それはハバナもこの季節は夏休みということで、コンクリートの堤防の広々とした海岸通りには、日本の海の家みたいに仮設小屋がいくつも建ちならび、夜を徹して涼むカップルや若者達で鈴なりだ。だからとっても活気があった。音楽は聞こえてくるが、生の音はあまりなく、スピーカーの音が強烈だった。前回は、新市街にある、ホテルナショナルという、クラシックな大きなホテルだったが、今回は、旧市街の中心地にある、パルヶセントラル(セントラルパーク)という中規模のホテルだ。概観は周囲にマッチしたクラシックな、あまり特徴のないホテルだが、中は完全に近代的な設備のホテルだった。ホテルナショナルの空調が古臭く、ベッドのシーツがいつも湿っていたが、このスイス資本のホテルの空調は完璧で快適だった。ホテルからは歩いて旧市街のどこでもあるいていかれるし、一階のロビーで食べる、クラブサンドは絶品だった。ホテルの以後心地がよければ、旅の半分は機嫌よくすごせる。そのせいか、前回よりもずっとハバナが好きになった。このホームページで、キューバの紹介をしたが、今ちょっと時間がないので、しばらくお待ちください。8月20日
10日から15日まで、短い夏休みだった。あとは9月に少しでも休めたらなと、思っている。17、18日は、妻の友人が経営する、「の」beauty parlor,というかわった名前の美容院が、今営業している場所からすぐそばにあるビルに移り、それまでよりも10倍ぐらい広いスペースとなり、11月に新装オープンする。僕はその広告用の写真を撮った。ロケ地は全て沼津周辺や、町のなか。モデルはお店にくるお客さん。さてどんな広告になるか。11月頃、沼津や三島の人は、お楽しみに。その他、ホームページもできるので、そこで僕が沼津で撮った写真も紹介しますので、是非ごらんください。
そんな、友人の仕事を手づだっていていろいろ考えることがあった。JR沼津駅周辺は、どこかすっかり寂れていて、駅前の西武デパートも、なんだかうらぶれて元気がない。新幹線の止る、隣の三島駅周辺のほうが活気があるくらいだ。だからといってこの地域が元気がないわけではない。サービスを売る美容院は激戦区であるし、国道ぞいの大ショッピングセンターはいくつもあり、その規模は半端ではない。日常品や、スポーツ用品、など、いやその他の衣料品にしても、もうすでに東京よりその豊富さや価格はとっくに超えてしまっている。どのショッピングセンターも大盛況だ。
それに、車で20分も走れば、御殿場にあるアウトレットの大モールも出現した。そのため東名高速の出入り口は麻痺してましっている。等々、この地域静岡県のこのあたりは、日本のなかでもかなりあつい場所だ。
そのためだろうか、昔ながらの駅を中心とした物を売る商店街は、すっかりどこも寂れている。いまやそんな商店街で商売するには、それなりの個性が必要だろう。ほっとけば確実に駅前の空洞化はさけられない。駅前は車利用の少ない、学生たちばかりが目立つだけだ。
沼津のような地方都市では、ファミリーにしても皆、車で移動している。駅前は混雑して、移動の能率も悪い。駐車代金も高い。
と、考えていいるうちに、東京全体の空洞化が始まっているのでは、と思い当たった。現在の東京は確かに、活気が溢れている。しかしこれかは東京は周辺の人間が、「物」を買うために訪れる場所ではなくなっているのではないかと。旧来の大店鋪、デパートは、郊外に進出した『そごうデパート』がはやばやと倒産したが、これからは東京の他のデパートも危険なような気がする。
それはかつて物の中心は東京だったし、東京に行かなければ良い物が揃わなかった。しかし今でもすでに、物の豊富さバラエティーさは、巨大倉庫のようなところで営業する地方のショッピングセンターに、デパートという旧大店鋪は負けている。
いまさら、わざわざ東京で買う物はなんだろう。最先端のセレクトショップや、直営の人気のブランド以外、わざわざ行く必要はなくなるのではないだろうか。
東京に求められているのは、ソフトだけだと思う。歌舞伎町や渋谷センター街などの歓楽街、これは世界中にも珍しいソフト空間、銀座や原宿、お台場やディズニーランド周辺は、遊びやセンスを売るソフト空間。
しかし問題はソフトを売る空間には人は集まるが、物を買わないということだ。ディズニーランドだったら入場料で良いのかも知れないが、東京という都市に入るのに入場料を払う人はいない。しかしその魅力は物ではなくて、あくまでソフトなのだ。当然売るものは、物ではなくサービスだけだろう。
東京はますます、世界で一番人があつまる場所であるかも知れないが、遊びに来るだけ、さっぱり『物』を買う人がいなくなったりして。
考えられた戦略でものを売る以外、漠然と物をうる商売は、地方の駅前を見ると、見えてくるような気がする。
余談だが、ポスターをつくるので、沼津駅構内に貼ろうと交渉したところ、その90パーセント以上は、JRのポスターで独占されていて、地元のポスターは数枚分しかそのスペースが割り当てられていない。
あれ、これはちょっとおかしいんじゃないの?JRは、いくら民営化されたとしても、その空間はあくまで公共の場だ。駅の壁というメディアをJRが独占しているって、それは不等なことではないだろうか。
では、明日からキューバに行ってきます。8月2日
このところさっぱり更新ができていない。忙しさは普通だけれど、Macの前に座っても、このFILEになかなか辿り着かない。いろいろニュースはあるけれど、今月またキューバに行く予定だ。まだこのホームページにキューバの写真を紹介していないけれど、正直いってまだなんとなく、キューバを掴み切っていない。ハバナの旧市街は、19世紀末のスペイン時代の建物や、1950年代アメリカが追い出されるまでの繁栄のなごりが、まるでフリーズドライしたように残っていて写真家とし興味深いし、たくさんの写真を撮った。しかしなぜか人間が見えてこない。言葉のせいもあるけれど、前回の旅があまりに表面的すぎたのかもしれないが、キューバの本当の魅力ってなんだろうと、考え込んでしまう。そのもやもやを払拭するべく、再度訪れてみる。
8月のお盆あけぐらいから、新潮社フォーカスで「NUDE FILE」という4回連載をやる。もっとながくやるかもしれないが、興味のあるかたは手にとってみてください。7月10日
写真集『FENCE』から抜粋。
フェンスの向こう側には、まばゆく煌めくアメリカがあった。……そうだね、Emmy久しぶりだね。15年ぶりかな?それとも30年ぶり?たしかあの年、1967年の冬の福生、フェンスの外に密集するハウスの裏通りで、僕は君と出会ったはずだ。
君はまだ10才になったかどうかのプチプチした少女で、仲間たちと流行のステップを踏んで迎えてくれた。そのリズム感は日本の少女にはない軽やかがあった。
そんな遠い冬の日、友人と新車のホンダN360を飛ばして、この基地の町に来ていた。福生の上空はどんよりと雲が垂れ込めしんと寒く、ベトナム戦争真っ盛りにもかかわらず、眠ったように静かな暗い町だった。どうしてその日が静かだったのかは定かでない。時折、離着陸する輸送機の爆音が、重く響いていただけだ。
そしてこちら側との境界線、鉛色のフェンスのかなたは、枯れた芝生と冷たいコンクリートの滑走路がぼうばくと広がっていた。……そこは僕の想像のアメリカとはどこか違っていた。
その頃僕は、まだ本当のアメリカを知らなかった。僕にとってのアメリカは、テレビの受像機のなかにのみ存在していた。昭和30年代、テレビ黎明期の世代にとって、テレビはアメリカ社会を映しだすキラキラ光る小窓だった。僕が初めて見たテレビは、家からほんの数分の距離にあった、ホンマバーバーの12インチのナショナルのテレビジョンだった。隣の電気屋がプロレス放送のために町で一番早く仕入れた第一号が、その電気屋よりも早くその床屋に鎮座した。
(中略)
ねえ、Emmy。僕が君と再会したのは、その5年後だっけ?。君がその結婚に破れて離婚したばかりのころだ。六本木の地下にあった狭い真っ黒なスタジオでの撮影だった。そのとき君はあまり元気がなく、レンズを見る目は遠くばかりで焦点がなかった。
僕は君の少女時代を何も知らない。君の人生は通りすがりの他人と同じように、僕には何の接点もなかったからだ。君の苦悩や幸福やエクスタシーそして絶望に何のかかわりも持つことはなかった。まるでフェンスの向こう側の世界の四季折々の出来事を、そとから漠然と眺めても、その現実をその実態を何にも知らないと同じように。だからそれから10数年間、僕は君の存在さえ再び忘れていた。
そして西暦2000年、20世紀最後の年に僕たちは15年ぶりに再会した。君はすっかり大人の女になり、人生のかなりの部分を経験していて、落ち着きながらも人生の辛苦を知るやさしい女になっていた。この再会のときも偶然二度目の離婚をしたばかりだった。君は恋に生きる女だった。そのくせハイティーンの娘を持つ一人母親でもあった。女に限らず、男だって大人の時間は、ビデオの早送りのように過ぎて行く。過去の出来事をファイルにすれば段ボール幾箱にもなるだろう。
最近またEmmyがこのフェンスのある町に帰ってきたと知った。いつのまにかラテンを歌う歌手になっていた。ベサムムーチョ。ねえ、いったいどこでライブをやるの?今度聞きに行くから教えてくれる?この町は君にやさしいのかい?6月19日 昨日沖縄から帰ってきて、明日からサイパンに行く。沖縄は3年ぶりだった。この3年間で沖縄はすっかり変わった。色々意見もあるだろうが、ぼくは好きだ。今沖縄の人間、特に若い人達は自信にあふれているように見える。その理由に、安室やスピードの活躍もあるだろう。かつて、ブルースリーの登場で、東洋人が西洋人や黒人に抱いていたコンプレックスがふきとんだように。
沖縄は今サミットを迎え、化粧なおしに忙しい。別にサミットのために、モノレールができつつあったり、沖縄県平和祈念資料館が改装されたわけではないけれど……。資料館は建物こそちょっとバブリーだけど、内容はすごい。見るのに一日かかるほど充実している。
いや、それより、現在の沖縄に目を向ければ、北谷(ちゃたん)の変わりようが驚きだ。3年前には、米軍から返還されたそのあたりは、区画整理され、殺伐としていた。それが今ではまるで、インドネシア、バリ島のクタやサヌールだ。そこに渋谷の109と原宿の竹下通り。もっと洒落るかも。日本の海岸線は漁協のものなので、どこの海岸もバラックのような海の家しかないけれど、北谷は外国のリゾートのように海岸に接してレストランがあったりして、ライブをやっていたり、フリーマーケットがあったりと楽しい。近くにあるアメリカンビレッジも、洒落た巨大ショッピングセンターになっていて、しかも商品のしなぞろえ、価格とも本土から比べたら、超格安だ。沖縄は本気だ。このあたりはもっともっと発展すると思う。いまでは、かつてのように航空運賃も高くないので、アジアの1リゾートとみても魅力ある土地になりつつある。
6月11日 昨日、キューバから帰ってきた。印象は複雑だ。まず、直行便は、臨時便しかないので、行きは JAL,LOS経由、ニューメキシコ泊、翌日クバナエアーでハバナ、帰りはハバナからニューメキシコ、2時間ほどでJALで、バンクーバー経由と、帰りは一日で帰ってきたもの、なんとも遠い。8月には、臨時便で三便ほど、直行便があるらしいので、行くならそういうのに限るなって感じ。
。今回の撮影はアシスタントなしなので、荷物もできるだけ軽くしてゆくつもりだ。キューバのガイドブックはあまりないので、先入観を持たずに新鮮な気持ちで写真を撮ろうと思う。帰ってからの報告をお楽しみに。
5月24日 ちょっとした、ニュースですが、今年の10月に3週間ぐらいベトナムに行き、写真を再び撮って、今までの写真をおりまぜながら、新たにベトナムの写真集を作ろうと思ってます。発売は来年の1月か2月、写真展もする予定にしてます。楽しみにしていてください。フォームやE-mailに住所とお名前を書き込んでいただければ、案内状などをお送りします。
5月23日 6月1日から6月9日まで、ある雑誌の取材でキューバにいってくる。JAPAN WEEKがあり、カストロを撮れるかもしれない。まあ、行ってみなければわからないが。そのレポートは来月の中旬には、できるかも。なんだか最近、社会主義圏の取材が多いな。
それと、今のところあまり意味はないのだけれど、.COM(ドットコム)のドメインを取りたくて、色々さがしていたら、photojapon.comがまだ残っていた。もともと.comはアメリカのものだから、すでに4桁の数字や、アルファベット4文字、意味のある単語はすでにほとんど登録されていて、たしかにalaoyokogi.comなんてものは取れるかもしれないけれど、alao.comは取れなかった。だからこのホームページはalao.co.jpなんだけれど、photojapon.comの発見は超ラッキーていう感じかな。いちおうhomepage(toppage)だけ、つくったので、暇な人は覗いてください。このwebsiteをどのように使っていくかは、まだ決めてないので、なんかいいアイデアがあったら提案してください。http://www.photojapon.com5月22日 以前書いたように、SEVENSEASという雑誌の6月号で、ぼくがベトナムを取材した写真が約80ページにわたり載っている。ただこの雑誌は、メンバーのための雑誌で書店売りはしてないらしい。出版元は英会話の本で有名なALCPRESS
だ。直接注文すれば手にはいるかもしれない。一冊2000円だ。03-3327-1101。
佐賀駅前の大通り[NEXT] PHOTOGRAPHS( from SAGA to HIROSHIMA )
5月9日、いま話題の佐賀に行った。ある週刊誌(週刊ポストだけれど、今週号にモノクロ3ページで紹介さ思うことは、今の日本の学校というか、社会がどこかおかしいという側面は当然あるのだけれど、僕は違う見方として、メディアが発達しすぎている不幸もあると思う。いやその現実は逆行することはありえないので、いったいこの発達しすぎた情報社会にどのように、自分を見失わずに行きていけるのか、常に考えてなければならないのだと思う。
4月24日 週末、道志で行われたレイブに行ってきた。レイブって何っていうのが、ぼくの今回のテーマだった。ぼくの回りの若い連中が夢中らしいので、興味があり参加した。
簡単にいえば、屋外でやるトランスのパーティだ。言い替えれば、夜を徹してやる、音楽つきの(トランス)キャンプ・パーティというところだ。文化的には60年代のヒッピーカルチャーの流れだと思う。家族連れも多く、主催者はエコロジーがテーマになっていたりして、誰でも参加できる平和はパーティだ。ネガティブな面は表には見えないし、そんなこと日本にいるかぎりは、レイブでもクラブでも、アパートでもそれは日本のどこにでも存在する現状と同じ様なもので、取り立てていうことではない。それよりも、喧嘩もないし、これだけ多くの人間が集まっていて、とても平和な感じ、ラブ・アンド・ピースな感じが、それも連帯ではなく、ばらばらで、私的で、友好的で、自然で、カジュアルで、夜を徹して行われる、お祭りのようなもので、僕は大好きになった。60年代のロックカルチャーを経験したひとならば、皆誰でもその楽しみを経験できると思う。
なによりも、アウトドアが好きなひとには、キャンプのひとつのやりかたとして、楽しめると思う。4月21日 なにかと忙しくて、久しぶりに書きます。昨日と今日は雨でうっとうしいって感じだけれど、明日の夜から道志でおこなわれるレイブに行くので、今雨が降れば、天気が心配ないので納得してます。僕はレイブに行くのは初めてです。僕の回りの若い連中、10代後半から30ぐらいまでの連中にとって、今「レイブ」は特別なものらしいのです。いや特別ではなくて、日常の一部?皆がみなそうわけではないと思うけれど、僕が興味ある連中は、レイブが好きなようです。いったいレイブって何?それを知るために、行くのですが、連中の話を総合すると、ライブとキャンプと、自然のなかで霊的な体験をする場みたいです。それぞれ目的は違うかもしれないけれど、僕の印象では1960年代のヒッピーカルチャーに発しているのかな、ってのが、僕のまだ未体験の想像です。このレポートは来週にはできると思います。
4月6日 昨日ドイツから帰ってきた。今回は小説家の矢作俊彦氏とフランクフルトから、ニュルンベルグ、ミューヘン、レーゲンブルグス、ドレスデン、ベルリンと、ドイツの高速道路、多くの区間が最高速度無制限のアウトバーンを、オペルから借りた、オメガワゴン2.5iターボディーゼルでぶっとばした。僕はアウトバーン先日、家内の実家のある静岡県三島市に行った。実はちょくちょく行っているのだが、そこで家内の高校時代の同級生がやっている、割烹料理に行った。料理人としてはまだ若いが、とても丁寧な料理だった。彼自身のホームページがあるので覗いてみてください。「割烹ろめいん」http://www.izu.co.jp/~romain/
3月23日 今月28日から4月4日まで、車雑誌NAVIの仕事で、小説家の矢作俊彦氏とドイツに行く。ドイツ統一10年を、この目で見てこようというのだ。オペルからクルマを借りてアウトバーンをすっとばすって寸法だ。僕はかつて、統一前の東ドイツに行ったことがある。キャットスティーブンス(「サッド・リサ」が有名だ)という歌手の新譜を買うために、レコード店に東ドイツの人達が、長蛇の列を連ねていて、驚いた記憶がある。かれこれ20年前以上だ。その数年後、西ベルリンから東ベルリンに入ろうとしたとき、ベルリンの壁の写真集を僕が持っていたために、検問所で拒否され、入れなかった経験もある。最初の東ドイツの感想に戻るけれど、決して貧しい感じはせず、それよりも落ち着いた、かつてのヨーロッパの、のんびりとした空気がながれていて、ライン川下りも、そこから見た景色も、ぼくには社会主義の国に生まれても、その他の世界を知らなければ、けっこう幸福なのかな、とさえ思えた。しかし結局は、情報化社会が進むことにより、他の国の情報を知らずに生きることはできず、共産主義国家はヨーロッパでは終わってしまった。あの当時でさえ、ラジオやテレビは、西側世界の情報がどんどん飛び込んでいた。その一つの象徴が東ベルリンの街で見た、イギリスのポップシンガー、キャットスティーブンスのレコードを買い求める列だったのだ。
3月16日 今日からちょっと、DAY BY DAY のやり方を変えます。いちいちindexとリンクさせるのが、面倒なので特別なテーマがあるときだけ、リンクすることにします。それより日々思っていることなどを、だらだらと書いたほうが良いかなって思ってます。ベトナムのロケのあと、休みが一日しかなく、ホームページの更新がなかなかできない状態です。せめてこの日記の部分でも、簡単ながら更新することにしました。
『ベトナムレポート』 一昨日、ベトナムから帰って久しぶりの更新です。ベトナムのホテル事情というか、web状況は思っていたより、ずっと進んでいて、一流ホテルならば、部屋からもノートパソコンがあれば、インターネット、E-mailも可能な状態です。
ビジネスセンターもしっかりしていて、日本とさほどかわりません。次に行くときは
ノートを持って行こうかなって思ってます。さて、今回のベトナムは98年の6月以来だったので、2年弱のあいだのベトナムの変容が楽しみでした。なんといっても、ホーチミン市の中心街、ドンコイ通りの変わりようには驚きました。かつては安手のお土産しかなかったのが、この1年2年で漆や、陶磁器や衣料、そして洒落たレストランと、ホーチミンならではの、いやもうこの一角はベトナムというより、ホーチミン市というより、かつてのSAIGONになりつつあります。
この数年の間に、さらに劇的に変わると思います。ここは多くの外国人が、それも企業ではなく個人レベルの外国人がプロデュースした店がならんでます。もちろん裕福なベトナム人も素敵な店を経営してます。それを支えているのは、ベトナムの職人の技と賃金でしょう。ぼくはハノイの郊外の村で、竹の鳥篭を買いました。普通の篭は、やく10US$ですが、彫りもの飾りのついた、ちょっと豪華なそれは40US$でした。かざりのひとつひとつは約一点4、5日制作にかかるといいます。その細工から、一日の工賃を計ると、一日約1ドルです。20日間制作日数がかかるものは、20US$払えば作れるということです。これはあくまで一つの例ですが、目先の聞く人やプロデュース能力があれば、そのすぐれた技術を安価に利用でき、saigonでその数倍で売れるのです。
それを日本のバイヤーは買い付け、3倍から10倍の値段をつけて日本で売ってます。商業活動ですから、なんの問題もないけれど、どうせやるなら、ベトナムで買い付けするだけではなく、ベトナムの職人たちに新しいものを作らせてみてはと思います。そちらのほうが、ベトナムの潜在的な「技」の可能性を引出し、工芸品のレベルも上がり、これからのベトナムに役立つと思いますが。それは、さておき今回の前半はハノイに行きました。2月のハノイは初めてです。このシーズン、ハノイは、イメージのベトナムからは程遠い、涼しく、雲がどんよりと立ちこめ、約一週間の滞在中一度も太陽を見ることがありませんでした。別段これは異常気象ではなく、冬のハノイはこんなものだそうです。この時期にハノイへ観光するひとは、覚悟してください。ただ悪いことばかりではなく、言い方を変えれば、過ごしやすいということで、今まで2度訪れた6月の異常な暑さと湿度のシーズンと比べると、体力の消耗も少なく、郊外のバチャンのような、陶磁器の生産地巡りには快適といえます。それでも街を行きかう人々の衣装が、無彩色でちょっと寂しいかな。日本人からみたら、なんで、というほど厚着をしてます。
ハノイ観光の一番の季節は10月、11月だそうです。
ハノイからホーチミンに帰る日、空港が霧で閉鎖されてしまいました。結局3日間足止めをくらいました。(続く)
2月11日 2月13日から、2月29日まで「SEVEN SEAS」という雑誌の取材で、ベトナムに行ってきます。5月発売号から、「TONIGHT」の司会をしている、もとブルータスやポパイの編集長だった、石川次郎さんが、編集長になり、雑誌のリニューアルをするそうです。その第一弾の特集がベトナムということで、僕が写真を撮ることになりました。
そんなわけで、当分このホームページの更新はできません。帰ったらまた報告します。2月4日 東京赤坂にある写真文化館にて、一ノ瀬泰造写真展「地雷を踏んだらサヨウナラ」写真展のオープニングを見に行った。展覧会の構成は、戦闘場面の写真ばかりではなく、子供たちや、戦時下の普通の人々の日常なども紹介されている。僕は彼のオリジナルプリントを見るのは今回が初めてだった。この写真展のために膨大な写真のなかから再構成して、新たにプリントしたのもだそうだ。一ノ瀬の写真は、いやさせない。それは、それからの写真家一ノ瀬を暗示するようで興味深いし、この数日後に行方不明になり、その続編が見ることができなくなり、残念に思えた。
1月20日 今日Bunkamuraでアメリカ製ベトナム映画「季節の中で」"Three seasons"を観た。評判にたがわず、素晴しい映画だった。はじめて長編を撮ったこの監督は、1975年、サイゴン陥落のおり、2才でボートピープルとして一家がアメリカにわたった、TONY BUI。彼は19才のとき初めてベトナムを二週間訪れた。そのときはショックで5時間後には帰りたくなったそうだ。ところがアメリカに帰るとすぐに戻りたくなったという。この映画は、アメリカとベトナムの、初めての交感だと思う。交感が描かれているという意味ではなく、アメリカ人とベトナム人が協力して作り上げたベトナム映画という意味でもあるし、ここにあるのはアメリカとベトナムの戦争により引き起こされた悲劇のかずかずを、この映画によって、「浄化」するこころみだと思う。現在の一見美しくないベトナムの裏通りやその生活のなかに、アメリカ的な価値観からは貧しいだけにしかみえない濁った泥水のなかに、美しい蓮の花が咲く。ベトナム系アメリカ人であるTONY BUI自身の心の「浄化」がテーマではないだろうか。
OCTOBER FILMSのホームページ
http://www.vietscape.com/movies/3seasons/screening.html先日、昭和56年に、64歳で亡くなった、ぼくの父、横木謙雄の戦争中のアルバムを見つけた。新聞記者だった父が、まだ学生時代、弱冠21、3歳の頃、ちょうど時は太平洋戦争まえ、昭和12、3年、それは「支那事変出征記念冩眞帖」と表題された、厚さ約3センチ、B5サイズの写真帖だった。ぼくは父親から戦争の話をほとんど聞いていない。そして父が亡くなったのが、ぼくの30代、すでに別に暮らしていたので、父の遺品をみるが機会が今までなかった。当時徴兵され戦地にいくと、このような写真帖がいつもつくられたのだろうか。激戦の太平洋末期でもこのような写真帖はつくられたのだろうか。中味は学校の卒業アルバムのように、印刷された写真が収められ、それ以外の写真は父が貼ったと思われる。いろいろな切り抜きもあったが、一番印象的な写真は「悲しき凱旋」と父が題した写真だった。アルバムの前のほうには、その写真と似た写真が貼ってあり、そこには行進する、父自身が写っていた。ところがもう一枚の写真は、たぶん父の生地のそば、新潟県新発田市の凱旋行進の写真だろうか、よく目を凝らしてみると、遺骨を胸に抱く兵士がおびたたしい人数いるではないか。
(下の写真は父親が写っている。「添田部隊遺骨環送儀伏兵トナリテ」と読める)
この列はこれで終わっているわけではない。どのぐらい続いているのかわからない。父の出征した支那事変は、後の太平洋戦争と違って、まだ生存率は高かったのかもしれないが、それでもこんな小さな街だけでも、生きて帰れなかった人間がいるなんて、もしかしてあちら側に、父がいるいた可能性だってあったのだ。もしそうだったらぼくは存在していないわけだし……などと、不思議な気持ちになってしまった。戦争のアルバムは、こうやってみると、まるで反戦写真帖になっているな、って感じた。
1月14日 1月8日に、ちょっと変わったnudeの雑誌『FAKE/OFF』をだしました。nudeばかりか、なぜかVLADIVOSTOKの写真まで載ってます。表4(裏表紙)は、ベネトンの広告のふざけたパロディ?(と呼べるようなしろものではありませんが)、となにしろくだらないことと、今の日本のある種の現実と、をシンプルにre-mixした雑誌です。読むとヘビーなことも書いてあります。今雑誌がまったく売れない時代になってきてます。特に男性誌と呼ばれるものは、進化が止まっています。これからのこの手の雑誌のアイデアの元になるような、車でいえばプロトタイプといった、こなれていないけど、何かひっかかる雑誌をと思い、作ってみました。書店などでみかけたら、見てみてください。できればちょっと高いけれど、¥980買ってください。お近くの書店になければ。M英知M英知出版営業部03-5229-4350で尋ねてください。
1月8日 「サイゴンの昼下がり」の紹介から初めてたホームページも、去年の7月から自分で制作するようになって、かなり大きなサイトになってきました。独自ドメインもとり、メインのホームページも新に制作しました。色々と充実させてくると、さて、初めた当初の目的、多くの方にベトナムを知って欲しいと望んでいたことが、僕の本を読まない人(たしかに本は買って欲しいのですが、情報量としはこのベトナムサイトの10倍はあると思います)にも、僕が見たベトナムを知ってもらおうと思い、制作することにしました。これからまだまだ充実させるつもりです。時々覗いていみてください。
それでもやっぱり、「サイゴンの昼下がり」を直接読んでもらえたらなと思います。新潮社に直接かクロネコヤマトのブックサービスに電話(03-3817-0711)でも注文できます。詳しくは「サイゴンの昼下がり」のホームページの[ORDER]をご覧ください。1月5日 A HAPPY NEW YEAR AD2000
やはり、予想どおり何も起こらなかったY2K。諸外国と比べて対策の遅れていた分、土壇場での大騒ぎ。世界で一番地味じゃなかったのかな、ミレニアムのイベント。何とも日本的だな。あれだけ脅かして、あの大騒ぎなイベントをやらかすなんて、米国。各国景気浮揺に利用したっていうのに、日本はまんまと商売させられただけだ。マイクロソフトの陰謀だよ。Macユーザーのぼくとしては、コンピューターの不具合なんてなれっこなので、気にもしてなかった。本当はそういう次元の問題じゃないかもしれないが。だいたい車検にしても整備したらかえって調子の悪くなる車もあるし、Y2Kの対策のチェックで、プログラムをミスする確率は、どのぐらいだろう。ことし問題のインフルエンザのワクチンにしたって、その副作用の率と、インフルエンザで死ぬ割合、どうなっているのだろう。癌の手術もそうだけど。寿命を縮める手術のなんと多いことか。いってみれば、人為的ミスはプラスの方向にも、マイナスの方向にもあるわけだし、ミレニアムの外国の大イベントを見ると、マスコミの発達した単一情緒の国、日本って、ほんとナイーブな国民なんだなと思う。あぶない、あぶない。
昨日メールで、僕のホームページを読んだ、尾形 聡さんが、[EPISODO]で今使用している、POLAROID 195がなくなったら困ってしまうと書いたら、アメリカのNPC社から、復刻版がでていると知らせてくれた。http://www.npcphoto.com/。インターネットって素晴しいメディアだと思う。もっと、もっと、簡単にスピーディに使えるようになったらと思う。
1999年
12月30日 1999年も残りあと一日。別段人類滅亡もなさそうだし、残すイベントはY2K。いったい何が起こるのだろうか。興味しんしん。何も起きなかったりして、ふ抜けたAD2000年を迎えるのだろうか。それも‥‥‥。
僕は東京を脱出?.静岡県の三島と伊東に晦と新年は滞在予定。何かあったらカメラを持って帰るつもりだけれど。このホームページは1月5日から運転する予定。それではよいお年を。12月20日 戦争写真家一ノ瀬泰造のサイトを作りました。http://www.alao.co.jp/taizoichinose.html
僕が撮影した一ノ瀬泰造氏の学生時代、19歳の写真や、拙著「サイゴンの昼下がり」のなかの第9章で
「戦争写真家ロバート・キャパと一ノ瀬泰造」の章から抜粋して紹介してます。是非ごらんください。
12月7日 今週発売の週刊宝石でウラジオストクの紹介をしている。
アサヒカメラの写真とは違い、スナップショットが多い。
12月6日 ここのページになかな書き込むことができない。たださぼっているわけではなく、
実は、来年2000年1月1日から、この建て増し状態のホームページをリニューアルしよう
と日夜、こつこつと制作中なのです。そのために独自ドメインを取りました。
http://www.alao.co.jp/ です。
11月25日 1999年12月号に発表した、ウラジオストクのホームページがようやく、ほぼ、完成しました。どうぞごらんください。表紙の写真はアナスタシア(12)と彼女のお母さん。ウラジオストクのアムール湾に面したムラビヨアムールスキー半島のちょうど真ん中ぐらいの場所にある、サナトリウム駅の海岸。湾の奥深くなので波がほとんどない。水も砂も美しい。リンホフテヒニカ4x5、レンズはスーパーアンギュロン65mmf8,フィルムはプロビア。横位置で撮影した写真の左右をトリミングしている。ウラジオストクのホームページのTOPページにある地図を参照してください。
11月18日 アサヒカメラ12月号でウラジオストク「さいはてのヨーロッパ」を紹介しています。そこでお知らせしたとおり、ウラジオストクのホームページもアップロードしました。まだまだ、未完成です。今月いっぱいには完成させる予定です。また週刊宝石では12月中に「90分で行けるヨーロッパ」というタイトルで紹介しています。どうぞごらんください。
11月1日 東京ファンタスティック映画祭99のチームオクヤマスペシャル、浅野忠信主演「地雷を踏んだらサヨウナラ」を見た。
10月26日今月は何かとあわただしく、なかなか書くことができない。
ウラジオストクのホームページを作ろうと思っているけれど時間がない。
アサヒカメラの12月号の、表紙と巻頭8ページでウラジオストクの作品が紹介される。
発売日は11月20日。その撮影ノートでウラジオストクのホームページを作ると言ってしまったので、早急にまとめなければと思っている。
10月15日、先日ロシア出身のモデルの撮影をした。僕が9月にウラジオストクに撮影に行ったときコーディネートをしてくれた、ALEKSEY君のお姉さんが最近始めたモデルクラブの女の子たちだ。16歳から19歳まで。東京の印象は?と聞くと、もっとゴージャスな街だと思っていたと答えた。
たしかに東京の街は全体を俯瞰すると巨大だけれど、ウラジオストクのような西洋的なレンガとコンクリートでできた都会からくると、東京は想像よりも豊かに見えないのかもしれない。もっとも彼等は、まだ広尾界隈しかしらないので、東京の巨大さは、想像すらできてないと思う。ただ僕が、ウラジオストクのロケから新潟空港に降り立つとき、下界の、田園が広がる新潟の街は、ほんの一時間半前に経験した都市と較べて、寂しい片田舎に見えたことは事実だ。以前、まだレインボーブリッジがなかったころ、東京の街の巨大さは、僕も実感できなかった。
巨大な都市は日常的に俯瞰できることによって、そのスケールがわかるのだと思う。
10月2日7月23日に見たベトナム映画「ナイフ」と同じ映画監督レ・ホアンの1997年に公開した、
「サイゴンからの旅人」を、東京の科学技術館サイエンスホールで見た。
この集まりは日本ベトナム友好協会が主催する「ベトナムからの風」と題して、
映画評論家の佐藤忠男氏の、ベトナム映画についての講演と、いう現代ベトナムの画家、レー・タン・トゥー
氏(9/3-10/9まで絵画展を開催中)の講演、そして映画の上映イベントだった。映画の内容は、1975年の
南北統一からしばらくたったとき、たぶん1980年前後だらろうか。一人の男が、サイゴンを訪れ、建物の地下
に埋められた遺骨を掘り出す。そこには一緒にコンパクトが埋められていた。それは、ベトナム戦争中、サ
イゴン近郊の無人の住宅に、ゲリラ戦遂行中たてこもったとき、見たこともない、アメリカ製のコンパクトを戦
友が見つけ、故郷に持ち帰りたいといっていたその場で、銃撃に倒れた。その遺骨を、サイゴン(ホーチミン
市)からハノイの戦友の母親まで送り屆けるとう、ロードムービーだ。
まるで日本の戦後の混乱のような時代、闇物資を取り締まる公安検査の厳しい時代、その遺骨をめぐってさ
まざまなことが起きる。この映画も「ナイフ」と同様来年単館ながら上映される予定だ。レ・ホアン監督の二本
の映画を見たことによって、彼の映画のテーマが理解できたような気がする。それはかつて一つだった国、
同じ国民どうしが、二つに分断され、互いに敵味方にわかれ戦争をし、憎みあった歴史がある。今は再び統
一したがいったいそのことによって民族はどのようになってしまったのか、と問いかけているのではないだろう
か。
「彼等のヴェトナム」 講談社「本」の雑誌1999年9月号
出迎える彼の手を握るとひんやりと乾燥していた。僕とほぼ同世代の彼は、
元ヴェトコン、そして公安経験のある日本語通訳だ。その風貌は、
日焼けした浅黒い肌、鋭い眼光、小柄で細い鋼のような体つきと、
どこからみてもイメージ通りのヴェトナム人だ。
僕たちは一瞬視線をあわせて無言で笑った。日本を出発するまえ、
使い初めて半年という彼の携帯と、何度も話しあっていたので二人の気分はその連続線、それとも男同士の照れだろうか、そっけない一年半ぶりの再会の挨拶だった。
携帯電話が普及してからというもの、世界は確実に狭くなった。
それは固定された従来の電話とは決定的に違っている。
「もしもし、横木ですけど」
「モシモシ、ヨコギサン。チョットウルサクテ聞コエナイデス」
「今どこにいるの?」
「オ客サント、レストランデ食事中デス」
「だいじょうぶ?」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ!」
こんなふうに、携帯電話はところ構わず相手の日常に飛び込んでゆく。
日本では気にもしてなかったけれど、ほんの半年前までは、
電話でさえ満足に連絡が取れない、ファックスが唯一確実なコミュニケーションだった国で、いつでも彼を捕まえられるという不思議さは、
一九九四年に初めて訪れたときに感じたこの国の、
素朴な印象からは想像できない現実だった。
ホーチミン市はこの五年間ですっかり変わった。
白ペンキに塗られていた市民劇場は、
一九三〇年代のオペラ劇場と呼ばれていたそのままに優雅に修復され、
中心街からサイゴン川に連なるグエンフエ通りの広い中央分離帯にあった土産や花屋は撤去された。
そしていつもホテルの前でたむろしていたシクロの集団は、
いくつかの通りから追放され、バイクはさらに増え、
日本製や韓国製、そしてドイツ製の真新しい自動車が目につくようになった。
洒落たレストランやブティックがそこら中にOPENし、
初めて訪れたときに梯子した、偽物のアンティック時計を売る店は目立たなくなった。
街はみるみる整備され、猥雑な心地よさはすっかり消えていた。
気候をのぞけば、まるでヨーロッパの小都市のようなたたずまいになるのも時間の問題だ。
たしかにヴェトナムのどこを訪れても、かつてより豊かになった。
活気に溢れ、商品も溢れている。人々は明るく、
まるで日本の戦後のように高度成長の真っ最中に見える。
ただ、ひとりひとりを見ると、例えば僕の友人の彼にしても、
この数年間で豊かになったとは思えない。二台あったバイクは一台になり、
残った新車のバイクは、すぐに盗まれてしまった。今は友人から借りているという。
家にはテレビも洗濯機もパソコンもあるけれど、
アジア経済が冷え込んでからはヴェトナムも不況となり、
彼が作った旅行会社のオフィスは畳まれ、今は一人自宅で営業だ。
やっていけないので、日本の漢方薬会社と契約しているが、
能率の悪いヴェトナムのその業種との交渉はトラブルが絶えないらしい。
今回は僕にとって五回目のヴェトナムだった。
拙著「サイゴンの昼下がり」を上梓するにあたり、それまで全くメモすることなく、
雑談として記憶していた、彼のさまざまなエピソードを再度確認することと、
何ケ所か見逃した土地を撮影することだった。
僕たちは旅のあいだ、いつも同じ部屋に泊まった。
ヴェトナムの軽井沢と呼ばれる避暑地、高原の街ダラットでは、
フランスのシャトーホテルのような豪華なホテルに宿泊した。
客室は広く、天蓋つきのベッド全体は蚊帳が覆い、
新婚旅行にぴったりの部屋で、中年の男二人がそれぞれのベッドで寝ている様子は、
異様な光景だった。しかも毎晩響く、彼の歯ぎしりにはその晩も悩まされた。
朝になるとよく整備されたホテルの広大な前庭には、
ヴェトナム人団体旅行客が大勢あつまり、ホテルを背景に記念写真を撮っていた。
彼等は旧市街にある小さなホテルに泊まっているらしい。
僕たちは、朝のさわやかな風が抜ける、眺望のよい、
ホテルのレストランで朝食をとった。
礼儀正しいヴェトナム人のギャルソンが注文を取りにきた。
僕たちははまったく同じものを注文した。
固めの両面焼の卵二つとベーコン、クロワッサン、
それにオレンジジュース。昨日の夕食も、僕とまったく同じものを彼は食べた。
「おいしい?」と聞くと、
「おいしい」と答えた。
ベトナム映画実行委員会パンフレット原稿1999年9月
「魅惑のベトナム」
ホーチミン市の表玄関タンソンニュット空港の、税関検査を無事通り抜けると、
鈴なりに重なるおおぜいの熱い視線が柵越しに出迎えている。そんな人いきれや、鼻につく排気ガスや、焼けたオイルの臭い、そして肌にまとわりつ
くベトナム特有の湿った空気と熱気が、たちまち僕の毛穴という毛穴を全開にする。
またベトナムに来てしまった。決して快適な気候とはいえないこの土地を、
訪れるたびに感じる、なんとも不思議な期待感と充足感はどうしてなのだろう。
ベトナムにいると自分の体温や流れる汗を意識する。肉体的な調節機能が試されている。五感は鍛えられ、それをフル動員すること
によって、さまざまなことが感じられる。
においや音や、踏みしめる地面や、光に敏感になる。
見るものの彩度は増して街が原色に見えたりもする。
雨が降ればその雨粒の感触を楽しみたくなる。
そしてなによりも肌をすり抜けるわずかな風が大好きになる。
たとえばサイゴン川を渡る早朝の風、
メコンデルタクルージングのまどろみを誘う風。
ニャチャンの日中の凪が終わる瞬間の風。
ダラットの高原をぬける乾燥した風。
ハロン湾のすこし生臭い風。
六月のハノイの脂汗をしぼりだす、無風という湿度の飽和した風。
五感が敏感になると、脳はすこし弛緩する。
ベトナムにいると物欲が抑えられる。平和な暮らしに憧れる。
誰と会っても楽しくなる。
こずるいシクロのドライバーや、最近問題
の悪質なスリの連中でさえ笑っているので善良に見えたりしてしまう。
あのアメリカと戦った力を彼等はどこにかくしているのだろう。
きっと今ではたっぷり食べられる野菜中心のベトナムの食事が、
人々の心を穏やかにするのだろうか。
たしかにアオザイの女性は皆文句なく美しい。
彼等のベトナム語はとても優雅に聞こえる。
かつての日本も、こんなふうにゆっくりと時間が流れていたのだろうか。
だから一度ベトナムを訪れると皆とりこになってしまう。
9月26日 夜になるとすっかり秋めいてきた。
先日訪れていた、ウラジオストクの日本語ガイドのアレクシー君から、
この数日ですっかり肌寒くなったとメールがあった。東京は日中はまだまだ暑く、
冷房が欠かせないけれど、ウラジオストクは短い秋から、突然冬になるらしい。
11月を過ぎると、雪は少ないが、氷点下10度から20度にもなるという。
ウラジオストクから帰ってからは、いろいろ忙しく、
それに撮った写真の整理にも時間がかかり、なかなかホームページ上で
紹介できない。しかし今月中に第一報として、紹介するつもりだ。
それに、雑誌などで発表したその後、新たに独立したホームページを
作ってみようと思う。
お楽しみに。
昨日、ウラジオストクから帰ってきた。印象は想像以上の興味ふかい街だった。ショックだったともいえる。詳しい報告は、写真を交えてそのうち報告するが、一番の驚きは、東京から車で3時間半飛ばして、新潟までゆき、そこからウラジオストク航空で、たったの一時間半。そこは、いわゆるアジアではなく、西洋文化圏、正確には東欧文化圏の極東の国が存在していることだ。一時間半というと、国内線の感覚だ。たったそれだけで、まったく異文化の白人国家を体験できるなんて、ヨーロッパやアメリカ大陸に住む人間にとってそれは、ごく普通なことだろうが、アジアの最果ての日本からも、こんなに近くに異文化を体験できる場があることを知り僕は嬉しくなってしまった。
しかも、ウラジオストクはまぎれもなく大都会だった。
街の規模は名古屋ぐらいだろうか、
ソ連が崩壊する以前は街はよく整備され、海岸には
日本でも今はやりのボード・ウォーク?っていうなのかな、
海岸に板張りの遊歩道がある。
トロリーバス(電気で走るバス)が走り、
市電が走り、ケーブルカーがあったりと、
街の地形的にいえば、アップダウンがあってサンフランシスコのようだ
かつては、かなり社会資本が充実していたようだ。
しかしペレストロイカで街は荒れ放題になってしまい、現在は
徐々に回復中というところだ。
人口は80万人と少ないが、
ヨーロッパの街のように街全体が居住地のようで、とても活気に溢れている。
夏の気候は、北海道とも違う、暑いけれど涼しい、(20度から27度、冬は-10度から-20度)
乾燥していて不思議な空気感だ。
夏のあいだ、女性たちは美しい足を見せびらかすように、街じゅう
ミニスカートのオンパレードだ。誇張ではなく、皆足が長く美しい。
9月だと、午前7時半ごろ夜があけ、暗くなるのは午後9時だ。
(夏のあいだ日本とは一時間の時差と夏時間の合計2時間の時差がある)
真夏だったらもっと日が長い。
まだ若い女性が旅するにはいろいろ整っていないのでお薦めできないが、
(はっきりいってトイレ事情が悪い)
数年後、5年ぐらいたったら、日本人にとって、素晴しい
避暑地として、大観光スポットになると思う。
食事はおいしい。ホテルも奇麗なのがある。
海も日本海とは思えないぐらい、明るく美しい。
クラブもある。お洒落な子たちもいる。
9月8日 明日9日の朝から、ロシアのウラジオストクに行く。8/22にも書いたが、
カメラ雑誌と某週刊誌のドキュメンタリーだ。日本に一番近いヨーロッパ。
いったいどんな風景で、どんな風がながれているのだろうか。
8日間のほんの短い旅だけれど、帰ったらどんな場所だったか報告します。
9月2日 ロケでハワイに行ってきた。天気は最高、オフにはブギボートまでやった。
ハワイに行くたびに思うことだけれど、ここの気候は、本当に世界で一番きもちがいい。
この土地の晴れた日の、木陰を抜ける何ともさわやかな風は、他に比べるものがない。
1973年に初めて行ったときから、もう数え切れないぐらい訪れているので、
今さらハワイが好きだと普段は言わないけれど、
実際撮影するなら未知の場所に行くことが僕は好きなので、
自分からロケ先をハワイに決めることは殆どない。
ただ日本のカメラマンにとって、ハワイはオープンスタジオみたいなものだ。
日本にいるときと、何ら変わらないやりかた、生活、
いやそれ以上にずっと効率的に撮影できるからだ。
そして根本的に違う、光と風土、豊かな自然。
特に新人タレントの撮影の場合だったら、ハワイロケはステイタスだ。
出版社やタレント事務所の力の入れかたが違うというものだ。
今回は時間に余裕があったので、ワイキキの海岸をカメラを持ってぶらぶらと歩いた。
なんだか砂浜が以前より狭くなった印象だ。ワイキキ海岸は良く知られているように
人工の砂浜だ。北のサンセットビーチの白い砂が運びこまれている。今では
日本人観光客に占領されているが、僕が初めて訪れた1973年は
まだ日本人観光客は少なかった。そのとき僕が撮った写真を紹介する。
この写真は、僕がまだアシスタント時代にオフの時に撮った写真だ。
最初の写真展に発表した。タイトルは
「Three old graceful tourist--Waikiki,Hawaii,January 1973」
こんな閑散としたワイキキビーチは今では想像できない。
Canon F-1 24mm f2.8 TRI-X
8月23日 7月28日に僕がここで紹介した、ベトナム映画「ナイフ」などが紹介されたホームページが公開されました。どうぞごらんください。http://www.asia-movie.com/
8月22日 夏休みやら、ロケやらで更新する時間がなかった。それに25日からはHAWAIIに
ロケなので、また一週間以上更新できない。
9月に入ってから一週間、ロシアのウラジオストクへ行ってみようと思っている。
以前から興味があった土地だ。ソ連時代は軍港だったため隔離されていた都市だ。
最近、ウラジオストク出身の、日本に留学していた女性を友人から紹介してもらい、
彼女の弟がそこで通訳とコーディネターをしていると聞き、
さっそく行くことにした。
そこで撮影した写真をアサヒカメラの12月号の表紙と
口絵で発表するつもりだ。その他ある週刊誌にも発表の予定だ。
なぜウラジオストクかというと、新潟から飛行機で一時間半の隣国、
土地はアジアかもしれないが、ヨーロッパ文化圏のはしっこ、
言い替えれば日本から一番近い西洋文化圏のその土地を、
僕は何も知らない。だからこそ是非見たいと思ったのだ。
たまたま今日の夜、BSで「シベリア鉄道1万キロの旅」という
作家の村山由佳が旅する番組をやっていた。僕にとってタイムリーな番組だった。
8月12日 本日より、このサイトでも紹介している、TWILIGT TWISTの
作品を集めた、コーナーをアップロードします。どうぞごらんください。
8月10日
拙著「サイゴンの昼下がり」のなかで取り上げた戦争写真家一ノ瀬泰造氏は、僕の大学時代、同じサークルの一つ先輩だ。かつて僕が写真を始めたころ撮影した、一ノ瀬氏の学生時代の写真を、彼の両親に贈るため、古いネガを捜し、プリントした。一ノ瀬泰造がカンボジアのアンコールワットに消えて26年。もうそんなになってしまうんだと思いながらも、彼が生きた26年間の歴史と同じだけ時間が過ぎ去ったことは、感慨ぶかい。書簡集と写真で綴られた1978年に発表された「地雷を踏んだらサヨウナラ」が、浅野忠信主演で、2000年の正月映画として公開される。今の時代に、一ノ瀬泰造の生き方がどのように受け入れられるのか興味がある。戦争写真家一ノ瀬泰造のサイトを作りました。1999年12月20日どうぞそちらをご覧ください。
8月7日
暑い日が続く。しかも夏とは思えないような、澄んだ空が広がっている。
快適か不快かは別にして、カメラマンとしては日本の空がいつもこうだったら良いのにと思う。
実際この間に都内で撮影したフィルムの発色はまるでハワイのようだった。
写真家にとって光は決定的な要素だ。
日本には四季があってさまざまな光と出会える。しかしなんでもあるようでいて、日本では
得られない光も実は多い。あったとしてもごく短い時間。たとえば最近の東京の
光は、たまたまであり、年に何回もあることではない。計算できる光ではない。
日本ではまったくありえない光は、
砂漠のような乾燥した土地の澄んだ光だ。
経験的な感想だが、湿度とフィルムの
発色には関係があると思う。
それと白夜のような光も日本では味わえない。
まだいろいろあるけれど、日本人は何事にも敏感だと自負しているようだが、
それぞれの文化には鈍感な部分と敏感な洗練された部分がある。
日本人は微妙な光には関心があっても、ダイナミックな光を知らない。
それは日本文化全てに言えることかも知れないが。
光についてもう一つの問題は、
緯度に関してだ。
日本から南の光を求めてロケにいく場合、ハワイかグアム、サイパン、バリが多い。
その島のどこも赤道に近い。たしかに素晴しい光かも知れないが、一つ問題がある。
日中は太陽が真上にあって、人物撮影をすると顔に影ができてどうにも美しく撮ることはできない。
この光の状態でレフ板を当てれば不自然な写真になる。
背景も全てが明るく照らされてメリハリがない。
結局人物撮影の場合、樹木の下などの日陰や、家の軒先や中で撮影することになる。
午後の斜光の時間になると、カラーフィルムでは色が赤くなってしまう。
当然といえば当然だ。赤みを抑えたければ、ブルーのフィルターで補正することになる。
ところが、かつて、僕が初めてヨーロッパに行ったとき、それも彼等の南国エーゲ海に
で撮影したときのことだ、日中の強烈な光が美しい斜光だったことに驚いた。
日中でも充分順光で撮影できた。季節は10月だ。その光は鮮烈だった。
僕はこのときばかりはヨーロッパのカメラマンに嫉妬した。
それと6月のフィンランドに行ったとき、
夜9時過ぎても、夕方の斜光が永遠と続く。僕は日本の日没の撮影のように慌ただしく撮っていたが、
一時間たっても、その光はほとんど変わらなかった。
日本人は日々微妙に変化する自然の、色彩や、そして気温や、食べ物に四季を感じるかもしれないが、
ヨーロッパ人は、そればかりか夏と冬のあまりに違う時間にも意味を感じているに違いない。
午後10時すぎなければ真っ暗にはならない季節があることは、日本では想像しずらい。
それにひきかえ、冬のパリは午前9時にあけ、午後3時は暗くなりはじめる。
冬は部屋にこもり勉強して、夏の長い昼間に外で遊ぶ。
そんな文化がヨーロッパ文明を創造したのだろうか。
童話シンデレラの12時の時報で魔法が解けてる話で、
まともな若い娘が夜中の12時までパーティに参加できるなんて日本じゃ考えられないだろう。
夜中の12時は、日本では草木も眠る丑三つ時(正確には午前2時から2時半だけれど、言葉のあやということで)。
でも夏のヨーロッパだったら、12時は夜になったばかり
ほんの宵の口、とても自然なことなのだろう。
7月28日
「ナイフ」1995年ベトナム作品/スタンダード/35mm/カラー/90min/
ベトナム映画協会副会長であり、ベトナムの若手映画監督レ・ホアン監督の出世作。第11回ベトナム映画際(1996年)審査員奨励賞を受賞。日本では、東京国際映画祭と同時期に開催されるアジアフィルムフェスティバルに上映されている。(ベトナム映画上映実行委員会事務局TEXTより)
(写真はレ・ホアン監督 1998.6 HCMC)
僕はこの映画を公開前にホーチミン市の、とある試写室で見た。
それは、1995年の夏、週刊文春のグラビア、原色美女図鑑でベトナムを取り上げたとき、女優でありバレリーナの、ミ・ズエンさんを取材したからだ。彼女はそのとき「最近映画を撮ったばかりだ」といった。内容に問題があり、上映を延期されているとのことだった。彼女は、その晩だったら、監督と一緒にその映画を見られるかもしれないと言った。
ミ・ズエンは10才の時、それは旧ソ連時代のことだ、ホーチミン市で開催された、世界的なバレリーナを多数輩出したレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)のワガノワ・バレー学校のオーディションに合格した。1000人のなかから選ばれたのは2人だった。彼女は8年間寄宿生活をしながらバレーを学んだ。その間ベトナムに戻ったのは、たった一度だけだった。卒業後ノボシビルスク劇場で踊りはじめる。しかしソ連が解体して、ロシアになり、状況は一変した。不安に思った家族の要請で、一時ベトナムに帰国。すぐに戻るつもりで往復切符を買った。
ところがロシアに戻るビザは二度と発行されることはなかった。
ホーチミン市には、満足にクラシックバレーを踊る場所はない。
失意の彼女は、いくつかの映画を経て、あるときレ・ホアン監督に出会う。
そこで彼女は映画に主演することになった。
このエピソードは、僕の拙書、今年1月に出版した「サイゴンの昼下がり」のなかの、「居場所のないバレリーナ」の章にくわしく書いた。昨年1998年の夏ベトナムに訪れたとき、僕は印象的だったミ・ズエンさんのその話を書こうと思い、再会した。監督のレ・ホアン氏も同席した。4年ぶりの彼は、ベトナムで最も有名な映画監督になっていた。彼は日本のある会社が、来年、彼の映画を日本で紹介する予定になっているといった。そして、僕のホームページを見た、この映画上映の関係者から、ある日メールが届いた。僕の本も読んでいるという。そんなきっかけで、僕は4年ぶりにこの映画の試写を見ることになった。
まず驚いたのは、ベトナムでの試写は画面がかなり暗く、どこか古くさいイメージがあったが、今回、日本で新たにプリントしたので、とても美しい現代の映画になっていたことだ。映写機の性能も違うのかもしれない。そして日本語字幕つきだったので、内容はずっと深く理解できた。1995年当時のこの映画が問題になったのは、映画のなかで革命軍(ベトコン)と政府軍(傀儡政権軍)の双方を、良くも、悪くも公平に表現したからだ。しかも共産主義を嫌うキリスト教の村が舞台だ。ヒロインの少女の母親はベトコンに強姦され死んでいる。こんなこと表現することは、きっとそれまでのベトナムでは考えられなかったろう。
以前観たときは、当然ベトナム語なので簡単なストーリー以外は、
理解できなかった。革命軍と政府軍のそれぞれのリーダーが二人とも人格者であるとは、わからなかった。そのかわり、音や、声や、映像に集中した。
ミ・ズエンの美しい声が印象的だったことを覚えている。
今回再度観て、僕の記憶の不確かなところが、それ以外にもいくつかあった。
それはラストシーンで、彼女と、革命軍の兵士、それに政府軍の兵士が
もつれる高い塔が、そして彼女が落下するその塔が、教会の鐘堂だったことだ。僕の記憶ではそこのところが不鮮明だった。記憶に残っていたのは、掛けられた梯子がゆらゆら揺れる竹の梯子だったことだ。なぜ彼女がその塔に登ったか、記憶がなかった。今回観てはじめて理解できた。
この映画は、株式会社グループ現代が事務局となり、来年に公開される予定だ。興味のあるかたは、phone.03-3341-2863fax03-3341-2874 (株式会社グループ現代)で、これからの予定などお尋ねください。この「ナイフ」の他、同監督の「サイゴンからの旅人」と、グエン・トゥオン・フォン監督の「ロイテ-誓い-」も同時に公開される予定だ。「ナイフ」などを紹介した、ベトナム映画のホームページがあります。リンクしてますので、どうぞご覧ください。
http://www.asia-movie.com/
週刊ポスト誌で、水着の新人タレントを8人を3日間に渡って撮影した。
そのなかの眞鍋かおり(19)が印象的だった。
伸びやかなスタイル。シャープな頭脳。愛媛県海上市出身、現在横浜国大一年生。
165-84-55-80
東京にでてきて、一番違うことは、やたらに歩くようになったことだという。
田舎ではどこに行くのも自転車だ。中国のように街に自転車が溢れているらしい。
7月21日 お知らせ
講談社FRaUの7/27日号の表紙となかのグラビアで、及川光博氏、ミッチーを撮影してます。 CD欲望図鑑のジャケット写真にもなっています。FRaU誌上の写真もCDの写真も、背景の合成以外、T・T(TWILIGTTWIST)で撮影してます。
7月19日
ことし出版した「サイゴンの昼下がり」のなかで、ロバート・キャパの最期の土地を訪ねたことを書いた。彼が死ぬ間際に撮った写真に、彼の死んだ場所が絶対に写っていると、僕は考えたからだ。しかしさまざまな事情で確定するに至らなかった。ロバート・キャパの最期の写真に似た場所は発見したが、あくまで少ない資料からの推量だ。この件に関しては「サイゴンの昼下がり」新潮社の「一ノ瀬泰造とロバート・キャパ」の章でくわしく書いてある。その写真は下記をクリックすると見ることができます。ロバート・キャパの写真もリンクしているので参照してください。ロバート・キャパ最後の土地
僕は再度準備をしてその土地を訪れようと思っている。それには、キャパのヴェトナムでの最期のコンタクトプリントを見れば、足取りがわかる。今はキャパの弟のコーネル・キャパかICPが管理しているらしい。
僕の大学時代の友人のS氏、もとPPS通信社に勤めていて、1984年のロバート・キャパの展覧会に関わっていた。先日彼からもらった情報を引用します。
1984年6月銀座松屋での写真展「ロバート・キャパ展 戦争と平和」は、企画構成を その最初から手がけた、思い入れのある展覧会です。展示作品でも示しましたが、また 展覧会図録にも掲載していますが、それまで構成上決まっていた作品に加え、モノクロの 最後の作品(インドシナ 1954年)20点と最後となったカラー16点をそのとき初めて公開しました。モノクロのコンタクトプリントはそのものを見ていませんが、この20点が 最後の写真の直前を含めたほぼすべてと思われ、また、カラーの16点は最初の1枚だけは 日本で撮影されていますが、最後の写真を含めた直前の写真の全てです。 日本で世界に先駆け初公開したわけですが、厳密にはそれ以前では、そのうちの カラー1点のみが当時「CAMERA」誌に発表されたものでした。 カラーはコダクロームで1点以外はその当時現像したままの状態で紙のマウントに続き番号が 刻印されていました。制作に使用後、オリジナルは東京展終了後コーネルに返却しています。 展示した最後のカメラも。(後、そのカメラ=Nikonは富士美術館に寄託されています) 展示写真のキャプションはアナ・ワイナンドによるものだったと思います。
7月16日
先日、K-1戦士、ブラジル人のフランシスコ・フィリオを、
週刊ポスト「PEPOLE」の頁のために撮影した。(掲載号はまだ未定たぶん9月か10月)
ことしの11月に、極真空手世界大会が開かれるそうだ。そのためK-1グランプリは参加しない。
今まで極真空手世界大会で、外国人は一度も優勝をしていない。
彼が優勝候補の一人だが、日本側は死守するつもりだ。
いろいろな理由で外国人が、優勝するのは困難らしい。
それでも今一番、強いのは彼なのだから、がんばってほしい。
フィリオは今年、その大会に優勝してもしなくても、
空手界からは引退するつもりらしい。
来年はK-1に専念するといっていた。
昨年、K-1 GRANDPRIX'98
では、マイク・ベルナルドに人生初めてのノックアウト負けをした。
空手家としては超一流でも、キックボクサーとしてはまだまだ未熟なのかもしれない。
特にボクシングに関しては、技術を充分に習得する必要があるという。
敗れたときは、悔しかったらしいが、今は少しも悔しくないという。
リベンジを誓ってK-1に本格的に乗り込むのだろう。
なんて、格闘技ファンの私でした。DAY BY DAY [Home]
12月31日 am1:00 2000年、そして20世紀最後の日。今から寝て起きたら本当に最後の日だ。だからって特別な感慨があるわけじゃない。世の中もさほど盛り上がっているとは思えないし。
僕は1月9日まで休みなのでのんびりと過ごす予定。それにちょっとホームページを手直しするよていもあるし。
それから、17日に書いたバナー広告はやめようと思う。あんまりデザインのよいものもないし。なんだかこのホームページにはそぐわないような気がする。気が変わったらまたやるかも知れないし、一つか二つは残すかもしれない。まあ、お正月中に良く考えて決めるつもり。
それでは、このサイトを訪れたみなさん、よいお年を。来年はもっともっと充実させます。
デジタルカメラの情報と、キューバの写真の紹介をするつもり。
A HAPPY NEW YEAR 200112月17日 バナー広告を張り付けました。バナー広告については以前からオファーがありましたが、迷ってました。ただ、やはりこのホームページもひとつのメディアとして考えた場合、広告がどのような意味を持ち、どのような効果があり、どのようにこのホームページに反映するかは、やってみなければわからないので、トライしてみることにしました。
例えば、この文章の上の東急のバナー広告。これがあるのとないのとでは、この日記の意味が変わってしまうのでは、とさえ思えます。ちらちらと広告が呼んでいるすぐそばで、プライベートな文章はどんな感じで読めるのでしょうか。
あと、何本かは載せる予定ですが、張り付ける場所などはいまのところ実験中です。御意見などありましたら、お聞かせください。
12月13日 12月20日に発売される小松千春写真集「VOYAGE」の制作ノートの一部を紹介してます。どうぞお読みください。
12月7日
20世紀もあとわずか。といっても毎年繰り替えされる、大晦日と元旦の、区切りとしての感傷とどのくらい違うのだろうか。呆気無く21世紀に突入するんだろうな、て思う。1999年から2000年のほうがちょっとばかりワクワクしたような気がする。かつて僕は、千年紀末(1999年)と新世紀21世紀に挟まれた、2000年という年は不思議な年になると予想していた。全世界の人間がこの中途半端な年に感傷的になり、得体の知れないハイな気分になるんじゃないかと。ところがこの年は、何も起こらなかった。宇多田ヒカルと、なんだろう、なにいってるんだそれは去年だ。それじゃ田中康夫だ。今日は鈴木そのこさんがなくなった。キムデジュン、キムジョンイル。佐賀のバスジャック。いやいや、なんだか健忘症のように、すっかり今年あったことを忘れている。三宅島だってたいへんだったじゃないか。そうだよな。キムタク結婚!そんなワイドショーねたの記憶しかない。あれ東海村は今年だったっけ。あれは去年だ。アメリカの大統領選もどうでもいいけど、わが!森首相と加藤せんせいの茶番。そうそうオリンピック。うん、高橋には感動した。でもただの有名人で終わって欲しくないな。来年走れるのだろうか。K-1のジェロム・レ・バンナはすごい。10日どうなるだろう。などと、スポーツ新聞のような僕の頭は、あとわずかの年末を、残された時間を、中途半端な気持ちで過ごしている。
12月1日
ひさしぶりのバリ島は、すっかり変わっていた。いや前回行った3年前は、ヌサドゥアとウブドゥ周辺にしか行ってなかったせいもあるが、クタやサヌール、レギャンの町の増殖には目をみはるものがあった。道路も一方通行のため、車で移動するとなんだか同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚がある。昔はコーディネーターのシモンのホテルも町外れって感じだったのに、今ではすっかり町の中心街だ。僕がバリを初めて訪れたのは10年数年以上も前。大リゾートのあるヌサドゥア地区が一部完成しただけで、クタの街も素朴なもんだった。その後90年代ヌードやグラビアの撮影で何回訪れたろうか。20回ぐらいは行ったかもしれない。そのころ一度しっかりロケハンをしたことがあったが、今回訪れて、そのころの印象と大きく変わったことに驚いた。ウブドゥの高級ホテルはアマンダリぐらいと思ったが、どうしてどうして、たくさんの新しいホテルができていた。撮影はたいていスイートルームでするので、普通のホテルでも印象はよいのだけれど、インテリアデザインや、調度品、そのほか空調が完全にインターナショナルのレベルになっていることに驚いた。ベトナムも進んでいると思ったが、バリはとっくにリゾートとして進化していた。それがよいのかわるいのかは、なんともいえないが、少なくともバリの住民は豊かになっていることは確かだった。なかでも、シモンのドライバーが、彼のことは10年ぐらいまえから知っているが、今回はじめて、彼が日本語を話しはじめたことに驚いた。11月23日
明日、24日から28日まで、週刊プレイボーイの仕事でバリ島にロケ。モデルは、R.Mさん。来年そうそうには発表されるので、お楽しみに。このところアジアと言えば、ベトナムにばかり行っていたので、バリ島はひさしぶり。あれ、このことは前回も書いたよね。
ベトナムでの写真集は、小松千春嬢。12月20日発売で、今アートディレクターのHARAさんが構成とデザインの真っ最中。ほとんどできている叩きだいを見せてもらった。僕の今年のベストフォトだと思う。
今年も、もう少しでおしまい。ということは、20世紀が終わってしまうっていうことだ。来年は2001年。2001年というと30年以上前に見た映画、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のことを考えてしまう。あの当時、まだ20代そこそこだった僕が銀座にあったテアトル東京の巨大なスクリーンで見た、衝撃は、今ビデオであの映画を見ても伝わらないだろう。
あの当時はるか未来の2001年には、確実に人間を取り巻く環境はSFであり、スーパーコンピューター、HALは人間なみの知能を獲得していた。まだPAN-AMという飛行機会社存在していて、宇宙船はPAN-AMだった。今になってなによりも感慨ぶかいのは、あの当時60年代で描いていたビジョンに、現実の科学は追いつけなかったことだ。政治的にはビジョンよりはるかに進み、社会主義があっけなく崩壊したけれど。科学も政治も、すべてが経済学からなりたっている現実。今の人間にとって宇宙船1台を飛ばす費用対効果が全人類のGPDとバランスが取れなくなっているのだろう。ソ連だってそれで崩壊したわけだから。
しかし、テレビでのコマーシャルでもやっているけど、携帯電話やパソコンの大衆化はある意味、60年代のビジョンより進んでいるかもしれない。あの時代から考えたら、人類はテレパシーを獲得したようなものだ。
それが、ベトナムのような開発途上国で、すでに日本と同じように進化している驚き、いったい21世紀はどうなるのだろう。
11月15日
ベトナムロケから帰って数日はぼんやりと過ごした。といっても日本を空けていたのでやることは山積。めちゃくちゃ忙しかった。やっと最近シャンとしてきた感じだ。今月末は、短いけれどバリ島にゆく。バリ島にはシモンという、中国系インドネシア人のコーディネーターがいる。彼はけっこうやり手で、今ではいくつかのミニホテルを持っている。僕はバリには、もう20回ぐらい行っていて、いつもシモンに仕事を手づだってもたらっていたが、最近は、ベトナムに凝っていたので彼とはとんとごぶさただった。再会するのが楽しみだ。
こんど長期ロケに行く時には、このホームページのアップロードを現地からやってみたいと思っている。当然写真も載せて。今月のバリ行きは短いので無理だけど。
11月10日
9日の続きの文章。先に11月9日を読んで下さい。
今回の撮影は、ベトナムのリゾート、H・C・M・Cからジェットで約45分のニャチャンで、一部行った。1994年に初めて行ったニャチャンは、ホテルの前の海岸には、日中は外国人しか横たわっていなかったが、あれから毎年のように訪れるここニャチャンはすっかり、ベトナム人のリゾートになってしまった。それが悪いわけではないが、以前程エキゾチックなイメージはなくなった。それというのも、ニャチャンの海岸の西側、飛行場のすぐちかくに、アナマンダラという高級リゾートホテルができ、それはチャンパ様式の建物で、ハッキリ言えばインドネシアのバリ島と同じような様式なので、例えば海岸のパラソルは、藁葺きのどっしりしたタイプになっている。以前はビーチのほとんどが、彩色した鉄の骨組みで、パラソルの色もカラフルで、もっと洒落たイメージだった。その影響だろう、なんだか僕にとっては、ベトナムと言うより、バリみたいで少し残念だ。
ニャチャンのどこに行っても人が多いので、車で1時間半、ボートで3、40分ぐらいかかる砂丘に行くことにした。ロケハンではスムーズにその砂丘に船で行けたが、本番の撮影のときには唖然とした。なんと、チャーターしてあったボートは沖合い遥か数百メートル先、小型の手こぎボートでさえ50mもさきに鎮座している。大潮で、すっかりその遠浅の海は、干潟と化していた。僕たちはそれでも行くしかなく、どろどろの干潟を荷物をかついで進んだ。なによりも割れた貝で裸足の足の裏が痛い。それでもどうにか手漕ぎボートまでたどりつき、荷物を載せ、沖合いの船まで押しながらすすんだ。
船に全員乗り込み、ロケハンしたときよりは風があるが、快適な内海を進む。そして僕らは、再び唖然とする。船が止った場所は、砂丘のある海岸まで、遥か300m。しかも僕が主張したのに手漕ぎ船はもってきてない。あるのは一寸法師が載るような、竹で編んだお椀方のボート。船からおりると、水深は腰ぐらい。足下はさっき以上に痛い。
しかし行かないわかには、いかないので、全員意を決して歩き出した。まるでベトナム戦争のアメリカ兵のように、荷物を担いで永遠に歩く。途中で何かを踏んで足が痛くなる。しかし荷物を担いでいるので確かめることができない。やっとのことで岸についた。汗びっしょり。これから撮影をするなんて、というぐらいすっかり疲労困ぱいした。もっとも、今となっては良き思いでだ。
11月9日
ついに10月は1回も、書くことができなかった。最後が9月の7日だからまる2ヶ月さぼっていたことになる。その間なにもしてなかったわけではなく、なにかと忙しくてなかなかここを開くことができなかった。10月11日から31日までベトナムにいた。初め来年出す予定のベトナムの写真を撮ることが第一の目的だったが、9月に、ある女優の写真集をベトナムで撮ってみようということになり、その準備やなんやかやで、PCには集中できなかった。それと、沼津の僕の友人の美容院、”の”の撮影を8月にしたけれど、そのポスターや、パンフレットのこと、そして簡単なお店の紹介のホームページを僕が作ると言ったため、Macに向かうと、そちらのほうに気が注がれ、簡単な文章もなかなか書く気になれなかった。そればかりか、ベトナムにデジカメ、CANONのEOS D30をもっていくことにしたので、ノートパソコンが必要になり、Macは大きすぎるので、ウインドーズmeのIBM,ThinkPad i Series 1620を買ってしまった。それが、それが僕にとっては大きな問題だった。Macでさえ、中途半端な知識で使用しているのに、windowsはMacみたいないい加減な使用の仕方ができなかったのだ。初めからウインドウズのひとは問題ないかもしれないが、止らないと思っていた、ウインドウズはがまるでMacのようにすぐにフリーズする。ノートパソコンはそういうものらしい。実際なじめず、調子が悪く、3台目にして落ち着いた。ビッグカメラは、僕のクレームを素直に聞いてくれて、とてもサービスがよかった。ベトナムでは、レンタルサーバーを当地で借りたので、E-mailもインターネットもスムーズに使用できた。1月20$。国内の電話代はただみたいだった。ホテルによっては一銭も請求されなかった。こんかいは、H・C・M・Cみ住むフランス人の家などを借りて撮影した。実はnudeの撮影だったのだ。12月20日ごろ発売されるので、興味のある人は買って下さい。今年のベトナムは大洪水で、使者が200名以上もでたって言う話だ。そのためメコンデルタは、9月中は道路が分断されていてカントーまでは行けないという。しかし僕らが訪れた10月中旬は、道路網は完全に復旧していた。ミトーのあたりから水田はまるで巨大な池のようになっていて、洪水の被害は大きかったが、床上浸水している家も、こんなこといったら悪いが、さして家財道具があるわけじゃないので、水さえ引けば、またもとの生活に戻るような気がした。日本の友人がずいぶん心配してくれたが、日本の洪水のように特別のことではなく、あるいみ日常なのかなって思えた。水かさはどこも多く、1000メートルもある川幅いっぱいに濁流のように水は流れ、横断するフェリーボートの船長は離岸や着岸をさすがプロのテクニックって言う感じでこなしていた。10月の17日までは、天気もぐずついていて、いつものベトナムとは思えない程、過ごしやすかった。18日から25日まで天気は最高で、その時でさえ気温や湿度も適度で、ベトナムをこんなに快適に過ごすのは初めてだった。今回はロケハンを入れるとカントーを二回、ニャチャンも二回訪れた。カントーに行くには依然だったら、フェリーボートを二回乗り継ぐ必要があったが、オーストラリア資本で巨大な吊り橋が完成したので、カントーもずいぶんと近くなった。
カントーといえば、メコンデルタの心臓部、水上市場が有名だけれど、陸上の道路の発達するにつれて、水上市場は以前からくらべると随分規模が小さくなった。それも時の流れ、しかたがないことだ。(この続きはまたあとで)
9月7日
9月2日にキューバより帰ってきた。今回は前とは少し違った印象だった。それはハバナもこの季節は夏休みということで、コンクリートの堤防の広々とした海岸通りには、日本の海の家みたいに仮設小屋がいくつも建ちならび、夜を徹して涼むカップルや若者達で鈴なりだ。だからとっても活気があった。音楽は聞こえてくるが、生の音はあまりなく、スピーカーの音が強烈だった。前回は、新市街にある、ホテルナショナルという、クラシックな大きなホテルだったが、今回は、旧市街の中心地にある、パルヶセントラル(セントラルパーク)という中規模のホテルだ。概観は周囲にマッチしたクラシックな、あまり特徴のないホテルだが、中は完全に近代的な設備のホテルだった。ホテルナショナルの空調が古臭く、ベッドのシーツがいつも湿っていたが、このスイス資本のホテルの空調は完璧で快適だった。ホテルからは歩いて旧市街のどこでもあるいていかれるし、一階のロビーで食べる、クラブサンドは絶品だった。ホテルの以後心地がよければ、旅の半分は機嫌よくすごせる。そのせいか、前回よりもずっとハバナが好きになった。このホームページで、キューバの紹介をしたが、今ちょっと時間がないので、しばらくお待ちください。8月20日
10日から15日まで、短い夏休みだった。あとは9月に少しでも休めたらなと、思っている。17、18日は、妻の友人が経営する、「の」beauty parlor,というかわった名前の美容院が、今営業している場所からすぐそばにあるビルに移り、それまでよりも10倍ぐらい広いスペースとなり、11月に新装オープンする。僕はその広告用の写真を撮った。ロケ地は全て沼津周辺や、町のなか。モデルはお店にくるお客さん。さてどんな広告になるか。11月頃、沼津や三島の人は、お楽しみに。その他、ホームページもできるので、そこで僕が沼津で撮った写真も紹介しますので、是非ごらんください。
そんな、友人の仕事を手づだっていていろいろ考えることがあった。JR沼津駅周辺は、どこかすっかり寂れていて、駅前の西武デパートも、なんだかうらぶれて元気がない。新幹線の止る、隣の三島駅周辺のほうが活気があるくらいだ。だからといってこの地域が元気がないわけではない。サービスを売る美容院は激戦区であるし、国道ぞいの大ショッピングセンターはいくつもあり、その規模は半端ではない。日常品や、スポーツ用品、など、いやその他の衣料品にしても、もうすでに東京よりその豊富さや価格はとっくに超えてしまっている。どのショッピングセンターも大盛況だ。
それに、車で20分も走れば、御殿場にあるアウトレットの大モールも出現した。そのため東名高速の出入り口は麻痺してましっている。等々、この地域静岡県のこのあたりは、日本のなかでもかなりあつい場所だ。
そのためだろうか、昔ながらの駅を中心とした物を売る商店街は、すっかりどこも寂れている。いまやそんな商店街で商売するには、それなりの個性が必要だろう。ほっとけば確実に駅前の空洞化はさけられない。駅前は車利用の少ない、学生たちばかりが目立つだけだ。
沼津のような地方都市では、ファミリーにしても皆、車で移動している。駅前は混雑して、移動の能率も悪い。駐車代金も高い。
と、考えていいるうちに、東京全体の空洞化が始まっているのでは、と思い当たった。現在の東京は確かに、活気が溢れている。しかしこれかは東京は周辺の人間が、「物」を買うために訪れる場所ではなくなっているのではないかと。旧来の大店鋪、デパートは、郊外に進出した『そごうデパート』がはやばやと倒産したが、これからは東京の他のデパートも危険なような気がする。
それはかつて物の中心は東京だったし、東京に行かなければ良い物が揃わなかった。しかし今でもすでに、物の豊富さバラエティーさは、巨大倉庫のようなところで営業する地方のショッピングセンターに、デパートという旧大店鋪は負けている。
いまさら、わざわざ東京で買う物はなんだろう。最先端のセレクトショップや、直営の人気のブランド以外、わざわざ行く必要はなくなるのではないだろうか。
東京に求められているのは、ソフトだけだと思う。歌舞伎町や渋谷センター街などの歓楽街、これは世界中にも珍しいソフト空間、銀座や原宿、お台場やディズニーランド周辺は、遊びやセンスを売るソフト空間。
しかし問題はソフトを売る空間には人は集まるが、物を買わないということだ。ディズニーランドだったら入場料で良いのかも知れないが、東京という都市に入るのに入場料を払う人はいない。しかしその魅力は物ではなくて、あくまでソフトなのだ。当然売るものは、物ではなくサービスだけだろう。
東京はますます、世界で一番人があつまる場所であるかも知れないが、遊びに来るだけ、さっぱり『物』を買う人がいなくなったりして。
考えられた戦略でものを売る以外、漠然と物をうる商売は、地方の駅前を見ると、見えてくるような気がする。
余談だが、ポスターをつくるので、沼津駅構内に貼ろうと交渉したところ、その90パーセント以上は、JRのポスターで独占されていて、地元のポスターは数枚分しかそのスペースが割り当てられていない。
あれ、これはちょっとおかしいんじゃないの?JRは、いくら民営化されたとしても、その空間はあくまで公共の場だ。駅の壁というメディアをJRが独占しているって、それは不等なことではないだろうか。
では、明日からキューバに行ってきます。8月2日
このところさっぱり更新ができていない。忙しさは普通だけれど、Macの前に座っても、このFILEになかなか辿り着かない。いろいろニュースはあるけれど、今月またキューバに行く予定だ。まだこのホームページにキューバの写真を紹介していないけれど、正直いってまだなんとなく、キューバを掴み切っていない。ハバナの旧市街は、19世紀末のスペイン時代の建物や、1950年代アメリカが追い出されるまでの繁栄のなごりが、まるでフリーズドライしたように残っていて写真家とし興味深いし、たくさんの写真を撮った。しかしなぜか人間が見えてこない。言葉のせいもあるけれど、前回の旅があまりに表面的すぎたのかもしれないが、キューバの本当の魅力ってなんだろうと、考え込んでしまう。そのもやもやを払拭するべく、再度訪れてみる。
8月のお盆あけぐらいから、新潮社フォーカスで「NUDE FILE」という4回連載をやる。もっとながくやるかもしれないが、興味のあるかたは手にとってみてください。7月10日
写真集『FENCE』から抜粋。
フェンスの向こう側には、まばゆく煌めくアメリカがあった。……そうだね、Emmy久しぶりだね。15年ぶりかな?それとも30年ぶり?たしかあの年、1967年の冬の福生、フェンスの外に密集するハウスの裏通りで、僕は君と出会ったはずだ。
君はまだ10才になったかどうかのプチプチした少女で、仲間たちと流行のステップを踏んで迎えてくれた。そのリズム感は日本の少女にはない軽やかがあった。
そんな遠い冬の日、友人と新車のホンダN360を飛ばして、この基地の町に来ていた。福生の上空はどんよりと雲が垂れ込めしんと寒く、ベトナム戦争真っ盛りにもかかわらず、眠ったように静かな暗い町だった。どうしてその日が静かだったのかは定かでない。時折、離着陸する輸送機の爆音が、重く響いていただけだ。
そしてこちら側との境界線、鉛色のフェンスのかなたは、枯れた芝生と冷たいコンクリートの滑走路がぼうばくと広がっていた。……そこは僕の想像のアメリカとはどこか違っていた。
その頃僕は、まだ本当のアメリカを知らなかった。僕にとってのアメリカは、テレビの受像機のなかにのみ存在していた。昭和30年代、テレビ黎明期の世代にとって、テレビはアメリカ社会を映しだすキラキラ光る小窓だった。僕が初めて見たテレビは、家からほんの数分の距離にあった、ホンマバーバーの12インチのナショナルのテレビジョンだった。隣の電気屋がプロレス放送のために町で一番早く仕入れた第一号が、その電気屋よりも早くその床屋に鎮座した。
(中略)
ねえ、Emmy。僕が君と再会したのは、その5年後だっけ?。君がその結婚に破れて離婚したばかりのころだ。六本木の地下にあった狭い真っ黒なスタジオでの撮影だった。そのとき君はあまり元気がなく、レンズを見る目は遠くばかりで焦点がなかった。
僕は君の少女時代を何も知らない。君の人生は通りすがりの他人と同じように、僕には何の接点もなかったからだ。君の苦悩や幸福やエクスタシーそして絶望に何のかかわりも持つことはなかった。まるでフェンスの向こう側の世界の四季折々の出来事を、そとから漠然と眺めても、その現実をその実態を何にも知らないと同じように。だからそれから10数年間、僕は君の存在さえ再び忘れていた。
そして西暦2000年、20世紀最後の年に僕たちは15年ぶりに再会した。君はすっかり大人の女になり、人生のかなりの部分を経験していて、落ち着きながらも人生の辛苦を知るやさしい女になっていた。この再会のときも偶然二度目の離婚をしたばかりだった。君は恋に生きる女だった。そのくせハイティーンの娘を持つ一人母親でもあった。女に限らず、男だって大人の時間は、ビデオの早送りのように過ぎて行く。過去の出来事をファイルにすれば段ボール幾箱にもなるだろう。
最近またEmmyがこのフェンスのある町に帰ってきたと知った。いつのまにかラテンを歌う歌手になっていた。ベサムムーチョ。ねえ、いったいどこでライブをやるの?今度聞きに行くから教えてくれる?この町は君にやさしいのかい?6月19日 昨日沖縄から帰ってきて、明日からサイパンに行く。沖縄は3年ぶりだった。この3年間で沖縄はすっかり変わった。色々意見もあるだろうが、ぼくは好きだ。今沖縄の人間、特に若い人達は自信にあふれているように見える。その理由に、安室やスピードの活躍もあるだろう。かつて、ブルースリーの登場で、東洋人が西洋人や黒人に抱いていたコンプレックスがふきとんだように。
沖縄は今サミットを迎え、化粧なおしに忙しい。別にサミットのために、モノレールができつつあったり、沖縄県平和祈念資料館が改装されたわけではないけれど……。資料館は建物こそちょっとバブリーだけど、内容はすごい。見るのに一日かかるほど充実している。
いや、それより、現在の沖縄に目を向ければ、北谷(ちゃたん)の変わりようが驚きだ。3年前には、米軍から返還されたそのあたりは、区画整理され、殺伐としていた。それが今ではまるで、インドネシア、バリ島のクタやサヌールだ。そこに渋谷の109と原宿の竹下通り。もっと洒落るかも。日本の海岸線は漁協のものなので、どこの海岸もバラックのような海の家しかないけれど、北谷は外国のリゾートのように海岸に接してレストランがあったりして、ライブをやっていたり、フリーマーケットがあったりと楽しい。近くにあるアメリカンビレッジも、洒落た巨大ショッピングセンターになっていて、しかも商品のしなぞろえ、価格とも本土から比べたら、超格安だ。沖縄は本気だ。このあたりはもっともっと発展すると思う。いまでは、かつてのように航空運賃も高くないので、アジアの1リゾートとみても魅力ある土地になりつつある。
6月11日 昨日、キューバから帰ってきた。印象は複雑だ。まず、直行便は、臨時便しかないので、行きは JAL,LOS経由、ニューメキシコ泊、翌日クバナエアーでハバナ、帰りはハバナからニューメキシコ、2時間ほどでJALで、バンクーバー経由と、帰りは一日で帰ってきたもの、なんとも遠い。8月には、臨時便で三便ほど、直行便があるらしいので、行くならそういうのに限るなって感じ。
キューバ滞在中は、ちょうどジャパンウイークということで、日本人がおうぜい訪れていた。観光客というよりは、キューバに日本の伝統的な文化を紹介するイベントをするために訪れている。アメリカのホワイトハウスを模した、旧国会議事度のなかでレセプションが行われていた。
キューバの印象は、初め、なかなかつかめなかった。キューバというより、首都ハバナの印象といったほうがよいと思うけれど。まず街は19世紀の植民地様式の巨大な都市だった。旧市街にかぎらず、街はそれこそかつての繁栄をものがたる、圧倒的な建築群だった。そしてそのほとんどが廃墟のようにメインテナンスがされていない。写真家としては、最高にフォトジェニックな、町並だった。そのうち写真で紹介するけど。ただ社会主義の国家であるキューバは、観光客にとっては、安上がりの旅行はやりずらい。通貨がUS$とペソの二重構造なので、食事にしろ、何にしろ高すぎる。なにしろ、観光客には現地人の値段では何も買えないのだから。簡単な食事でさえ、いっぱしの値段だ。一US$が20ペソで、キューバ人の平均年収が200ドル。え!可愛そう!ベトナムでさえ、平均年収500ドルぐらいといわれているのに、それもやみ経済はその何倍もあるといわれているけど、キューバはそうではない、人民も可愛そうかもしれないが、しかしそれで生活できるキューバはすごい社会主義なのだけれど、観光客も可愛そうだな、って思う。完全に搾取されている。旅行パックで込込だったらまだしも、個別に動くと、すべてが外国人値段だ。高級ホテルとか、高級レストランはしかたがないにしても、そうではない庶民はいったいどこに行き、何を食べているのだろう。
ヘミングウエイの博物館などは、撮影3コマにつき、5ドルとかいわれてしまった。なんだかんだ、40ドルも撮られてしまった。24コマも撮ってないのにだ。フェミングウエイの愛したキューバはどこ?って感じかな。すべて観光客は、金、金だ。レンタカーを借りて走り回ったが、車を駐車するたびに、見ておくからと男が寄ってきて、そのたびに1ドル。有料パークだと思えばそれまでだけれどね。ハバナの街から、サルサの音は溢れてなかったし、季節のせいか、草野球もあまり見なかった。それも、これも、首都ハバナのせいかもしれないが。
しかし、ハバナから車で2時間ぐらいの、リゾート、バラデロは素晴しかった。真っ白な長さが20・以上ある砂浜、遠浅の海。ホテルや施設も素晴しい。観光にハバナを訪れるなら、僕なら一泊ハバナに泊まったら、すぐにバラデロに行くって感じかな。
てなことをだらだらと、まだまだキューバの不満は多いけれど、でも写真家としての僕はこの街が大好きだった。快適といはいえないが、建物が素晴しい。人間も陽気で、きっと地方にいったらもっと、感じがいいに違いない。もっともっと、写真を撮りたいと思った。今のところ、アメリカとの対立は終わっていないけれど、アメリカとの国交が回復すると、劇的に変わるかもしれない。そうなると素晴しいリゾートになるだろう。
最後の社会主義の砦として、なにせロシアや中国、ベトナムと違い市場開放がほとんどされていないのだから、早く変わって欲しいというのは、ぼくの勝手かな、なにせ、カストロと、チェ・ゲバラの革命の国なのだから、そう気軽にいうことではないと思うけれど、やはり世界の普通の国になって欲しいなと思う。そのポテンシャルや魅力はかなり高いのだから。5月29日 明後日からキューバに行く。今日は最終的打合せ。といっても六本木のオステリアというイタリアレストランで、同行する編集とライターとワインを飲んで食事をしただけだ。今回はJALの直行チャーター便ではなく、ロス経由、メキシコシティで一泊してからハバナに入る。荷物のトランジットが少し心配だけれど、まあどおにかなるか。今回の撮影はアシスタントなしなので、荷物もできるだけ軽くしてゆくつもりだ。キューバのガイドブックはあまりないので、先入観を持たずに新鮮な気持ちで写真を撮ろうと思う。帰ってからの報告をお楽しみに。
5月24日 ちょっとした、ニュースですが、今年の10月に3週間ぐらいベトナムに行き、写真を再び撮って、今までの写真をおりまぜながら、新たにベトナムの写真集を作ろうと思ってます。発売は来年の1月か2月、写真展もする予定にしてます。楽しみにしていてください。フォームやE-mailに住所とお名前を書き込んでいただければ、案内状などをお送りします。
5月23日 6月1日から6月9日まで、ある雑誌の取材でキューバにいってくる。JAPAN WEEKがあり、カストロを撮れるかもしれない。まあ、行ってみなければわからないが。そのレポートは来月の中旬には、できるかも。なんだか最近、社会主義圏の取材が多いな。
それと、今のところあまり意味はないのだけれど、.COM(ドットコム)のドメインを取りたくて、色々さがしていたら、photojapon.comがまだ残っていた。もともと.comはアメリカのものだから、すでに4桁の数字や、アルファベット4文字、意味のある単語はすでにほとんど登録されていて、たしかにalaoyokogi.comなんてものは取れるかもしれないけれど、alao.comは取れなかった。だからこのホームページはalao.co.jpなんだけれど、photojapon.comの発見は超ラッキーていう感じかな。いちおうhomepage(toppage)だけ、つくったので、暇な人は覗いてください。このwebsiteをどのように使っていくかは、まだ決めてないので、なんかいいアイデアがあったら提案してください。http://www.photojapon.com5月22日 以前書いたように、SEVENSEASという雑誌の6月号で、ぼくがベトナムを取材した写真が約80ページにわたり載っている。ただこの雑誌は、メンバーのための雑誌で書店売りはしてないらしい。出版元は英会話の本で有名なALCPRESS
だ。直接注文すれば手にはいるかもしれない。一冊2000円だ。03-3327-1101。
佐賀駅前の大通り[NEXT] PHOTOGRAPHS( from SAGA to HIROSHIMA )
5月9日、いま話題の佐賀に行った。ある週刊誌(週刊ポストだけれど、今週号にモノクロ3ページで紹介されている)が8日の夕方に、急な話しだけれど、明日、佐賀から広島まで、今回の17才のバスジャック犯が通ったルートの取材はどうか?といってきた。テーマは「少年の見た風景」。締切は5月10日の夕方、もちろんぼくは興味があり取材したいので即ok。こういう事件ものは突然こんにふうに飛び込んでくる。運よく時間が空いていれば、僕はすぐにでも行くことにしている。あいにく、10日に早朝からロケがあるので、9日一日での撮影。羽田am7:40発、佐賀到着am9:00。帰りは広島の最終便pm8:40のとんぼ返りだ。モノクロページだけれど、カラーで撮影したほうが、現像が早く上がるでフィルムはFUJI ASTIA220を選択。カメラはコンタックスの645。常識的に考えれば35mmでの撮影だけれど、普通の報道写真のようになりたくないのでこれを選択。レンズは45mmのワイドと、80mmの標準レンズの2本。器材としては予備にもう一台のコンタックス645のボディ。
到着した佐賀空港は、真新しく不似合いなほど立派な空港だった。街の印象は清潔で僕の想像した、地方都市、佐賀とはかけ離れていた。佐賀といえば、一ノ瀬泰造の生まれた土地だ。なんども彼に触れいているくせに、佐賀に一度も行ったことがなかったし、イメージすら持っていなかった。
佐賀駅前の周辺は、茨城にある筑波学園都市のように、平和で清潔で、なにごともおこらない街のように思えた。いや先入観をさし引いても、まるでできたての街のように、駅周辺は、わいざつさのかけらもなかった。どうしてだろう?ぼくは周囲を見回した。すぐに気がついたのは、駅前通りに、日本の風景の特徴である、電信柱が皆無だったのだ。それが筑波市を連想したのだと思う。
あの犯罪を犯した少年は、自然に恵まれた、美しい地方都市で育ったのだ。薄汚れた、都会の片隅で育ったわけではない。貧しいこと、不潔なこと、から今の時代は犯罪が生まれるわけではない。平凡な市民生活のなかに、何かがたまっているのだろう。
5月5日 29日から、今日まで妻の実家のある静岡県の三島と、僕の母の住む伊豆半島にある伊東市に、まあ、ゴールデンウイークということもあり、でかけていた。こうゆう長期のゴールデンウイークは、たしか初めてなので全国的に、そんなことないかな?というのも、正月休みや、お盆休みは、なにか中心にイベントがあるけれど、ゴールデンウイークは別段とくべつなイベントがないので、けっこうのんびりとする。今日からリターンラッシュらしいけれど、朝早くおきて、9時前に三島を出発して、東名高速をすっとばしたら、1時間少々で帰宅できた。夕方は渋滞50・とか行っていたので、僕の読みがあたって、幸運だった。
まだ、休みも数日残っているけれど、この間に世間ではいろいろな事件が起こっていた。こういう事件が起きるたびに思うことは、今の日本の学校というか、社会がどこかおかしいという側面は当然あるのだけれど、僕は違う見方として、メディアが発達しすぎている不幸もあると思う。いやその現実は逆行することはありえないので、いったいこの発達しすぎた情報社会にどのように、自分を見失わずに行きていけるのか、常に考えてなければならないのだと思う。4月24日 週末、道志で行われたレイブに行ってきた。レイブって何っていうのが、ぼくの今回のテーマだった。ぼくの回りの若い連中が夢中らしいので、興味があり参加した。
簡単にいえば、屋外でやるトランスのパーティだ。言い替えれば、夜を徹してやる、音楽つきの(トランス)キャンプ・パーティというところだ。文化的には60年代のヒッピーカルチャーの流れだと思う。家族連れも多く、主催者はエコロジーがテーマになっていたりして、誰でも参加できる平和はパーティだ。ネガティブな面は表には見えないし、そんなこと日本にいるかぎりは、レイブでもクラブでも、アパートでもそれは日本のどこにでも存在する現状と同じ様なもので、取り立てていうことではない。それよりも、喧嘩もないし、これだけ多くの人間が集まっていて、とても平和な感じ、ラブ・アンド・ピースな感じが、それも連帯ではなく、ばらばらで、私的で、友好的で、自然で、カジュアルで、夜を徹して行われる、お祭りのようなもので、僕は大好きになった。60年代のロックカルチャーを経験したひとならば、皆誰でもその楽しみを経験できると思う。
なによりも、アウトドアが好きなひとには、キャンプのひとつのやりかたとして、楽しめると思う。4月21日 なにかと忙しくて、久しぶりに書きます。昨日と今日は雨でうっとうしいって感じだけれど、明日の夜から道志でおこなわれるレイブに行くので、今雨が降れば、天気が心配ないので納得してます。僕はレイブに行くのは初めてです。僕の回りの若い連中、10代後半から30ぐらいまでの連中にとって、今「レイブ」は特別なものらしいのです。いや特別ではなくて、日常の一部?皆がみなそうわけではないと思うけれど、僕が興味ある連中は、レイブが好きなようです。いったいレイブって何?それを知るために、行くのですが、連中の話を総合すると、ライブとキャンプと、自然のなかで霊的な体験をする場みたいです。それぞれ目的は違うかもしれないけれど、僕の印象では1960年代のヒッピーカルチャーに発しているのかな、ってのが、僕のまだ未体験の想像です。このレポートは来週にはできると思います。
4月6日 昨日ドイツから帰ってきた。今回は小説家の矢作俊彦氏とフランクフルトから、ニュルンベルグ、ミューヘン、レーゲンブルグス、ドレスデン、ベルリンと、ドイツの高速道路、多くの区間が最高速度無制限のアウトバーンを、オペルから借りた、オメガワゴン2.5iターボディーゼルでぶっとばした。僕はアウトバーンを自分の運転で走るのは初めてだった。20数年前にもチャンスがあったが、国際免許をもっていなくて叶わなかった。アウトバーンはヒットラーが、戦時にも航空機が着陸可能なように計画した世界でもとくいな高速自動車道路だ。かつてから比べれば自動車も増え、エネルギー問題、公害の問題もあり、全区間が速度無制限、からは程遠いが、路面といい、走っている車全体の速度がたかい(たいてい130・ぐらいでながれている)こともあり、そして外側の車線を100・ぐらいでゆっくり走る大型車のマナーのよさといい、ヨーロッパの環境の整った高速道路のなかでも、格段に走りやすかった。僕はだいたい時速150・から180・でクルージングした。日本でも速度の出しすぎな僕としては、そして普通の乗用車である、この車のことを考えても、特別の速度ではなかった。もっともこの速度で巡航していれば、特別飛ばしている車以外、たいてい200・以上で飛ばしているのだけれど、抜かれることはなかった。僕も緩い直線の下り坂で一瞬時速200・を出してみた。アクセルは一杯まで踏み込んでいたので、この車の限界だと思う。
今回の旅で僕が一番興味があったのは、20数年前に訪れた、東ドイツ、そして東ベルリンがどうなっているかだった。社会主義国家だった旧東ドイツのそのときの旅は、日本語を話すシューベルトさんという恰幅のよいガイドと運転手つき、しかしガイドブックもなく、予定に組み込まれた場所しか見ることができず、あまり印象の深い旅ではなかった。
なかでも、ドイツの古都と呼べるドレスデンの印象は浅く、駅の周辺しか覚えていなかったが、今回訪れて、二次大戦で破壊された多くの建造物が、再建されていて、そのスケールのお大きな旧市街の一角に驚かされた。きっと僕の訪れた二十数年前は、まだ瓦礫だったのだろう。ドイツが統一されて、過去の建造物は急ピッチ再建されている。ベルリンもそうだが、今のドイツはさながら土建国家だ。アウトバーンもいたるところで工事中だ。
ドイツのフォトレポートは、おいおい紹介する。3月28日 今日からドイツに1週間いく。何も下調べもせず、ぼく自身10数年ぶりのドイツだ。単純に僕の記憶のなかのドイツと、現在のドイツがどんなふうに違っているかが楽しみだ。
先日、家内の実家のある静岡県三島市に行った。実はちょくちょく行っているのだが、そこで家内の高校時代の同級生がやっている、割烹料理に行った。料理人としてはまだ若いが、とても丁寧な料理だった。彼自身のホームページがあるので覗いてみてください。「割烹ろめいん」http://www.izu.co.jp/~romain/3月23日 今月28日から4月4日まで、車雑誌NAVIの仕事で、小説家の矢作俊彦氏とドイツに行く。ドイツ統一10年を、この目で見てこようというのだ。オペルからクルマを借りてアウトバーンをすっとばすって寸法だ。僕はかつて、統一前の東ドイツに行ったことがある。キャットスティーブンス(「サッド・リサ」が有名だ)という歌手の新譜を買うために、レコード店に東ドイツの人達が、長蛇の列を連ねていて、驚いた記憶がある。かれこれ20年前以上だ。その数年後、西ベルリンから東ベルリンに入ろうとしたとき、ベルリンの壁の写真集を僕が持っていたために、検問所で拒否され、入れなかった経験もある。最初の東ドイツの感想に戻るけれど、決して貧しい感じはせず、それよりも落ち着いた、かつてのヨーロッパの、のんびりとした空気がながれていて、ライン川下りも、そこから見た景色も、ぼくには社会主義の国に生まれても、その他の世界を知らなければ、けっこう幸福なのかな、とさえ思えた。しかし結局は、情報化社会が進むことにより、他の国の情報を知らずに生きることはできず、共産主義国家はヨーロッパでは終わってしまった。あの当時でさえ、ラジオやテレビは、西側世界の情報がどんどん飛び込んでいた。その一つの象徴が東ベルリンの街で見た、イギリスのポップシンガー、キャットスティーブンスのレコードを買い求める列だったのだ。
3月16日 今日からちょっと、DAY BY DAY のやり方を変えます。いちいちindexとリンクさせるのが、面倒なので特別なテーマがあるときだけ、リンクすることにします。それより日々思っていることなどを、だらだらと書いたほうが良いかなって思ってます。ベトナムのロケのあと、休みが一日しかなく、ホームページの更新がなかなかできない状態です。せめてこの日記の部分でも、簡単ながら更新することにしました。
『ベトナムレポート』 一昨日、ベトナムから帰って久しぶりの更新です。ベトナムのホテル事情というか、web状況は思っていたより、ずっと進んでいて、一流ホテルならば、部屋からもノートパソコンがあれば、インターネット、E-mailも可能な状態です。
ビジネスセンターもしっかりしていて、日本とさほどかわりません。次に行くときは
ノートを持って行こうかなって思ってます。さて、今回のベトナムは98年の6月以来だったので、2年弱のあいだのベトナムの変容が楽しみでした。なんといっても、ホーチミン市の中心街、ドンコイ通りの変わりようには驚きました。かつては安手のお土産しかなかったのが、この1年2年で漆や、陶磁器や衣料、そして洒落たレストランと、ホーチミンならではの、いやもうこの一角はベトナムというより、ホーチミン市というより、かつてのSAIGONになりつつあります。
この数年の間に、さらに劇的に変わると思います。ここは多くの外国人が、それも企業ではなく個人レベルの外国人がプロデュースした店がならんでます。もちろん裕福なベトナム人も素敵な店を経営してます。それを支えているのは、ベトナムの職人の技と賃金でしょう。ぼくはハノイの郊外の村で、竹の鳥篭を買いました。普通の篭は、やく10US$ですが、彫りもの飾りのついた、ちょっと豪華なそれは40US$でした。かざりのひとつひとつは約一点4、5日制作にかかるといいます。その細工から、一日の工賃を計ると、一日約1ドルです。20日間制作日数がかかるものは、20US$払えば作れるということです。これはあくまで一つの例ですが、目先の聞く人やプロデュース能力があれば、そのすぐれた技術を安価に利用でき、saigonでその数倍で売れるのです。
それを日本のバイヤーは買い付け、3倍から10倍の値段をつけて日本で売ってます。商業活動ですから、なんの問題もないけれど、どうせやるなら、ベトナムで買い付けするだけではなく、ベトナムの職人たちに新しいものを作らせてみてはと思います。そちらのほうが、ベトナムの潜在的な「技」の可能性を引出し、工芸品のレベルも上がり、これからのベトナムに役立つと思いますが。それは、さておき今回の前半はハノイに行きました。2月のハノイは初めてです。このシーズン、ハノイは、イメージのベトナムからは程遠い、涼しく、雲がどんよりと立ちこめ、約一週間の滞在中一度も太陽を見ることがありませんでした。別段これは異常気象ではなく、冬のハノイはこんなものだそうです。この時期にハノイへ観光するひとは、覚悟してください。ただ悪いことばかりではなく、言い方を変えれば、過ごしやすいということで、今まで2度訪れた6月の異常な暑さと湿度のシーズンと比べると、体力の消耗も少なく、郊外のバチャンのような、陶磁器の生産地巡りには快適といえます。それでも街を行きかう人々の衣装が、無彩色でちょっと寂しいかな。日本人からみたら、なんで、というほど厚着をしてます。
ハノイ観光の一番の季節は10月、11月だそうです。
ハノイからホーチミンに帰る日、空港が霧で閉鎖されてしまいました。結局3日間足止めをくらいました。(続く)
2月11日 2月13日から、2月29日まで「SEVEN SEAS」という雑誌の取材で、ベトナムに行ってきます。5月発売号から、「TONIGHT」の司会をしている、もとブルータスやポパイの編集長だった、石川次郎さんが、編集長になり、雑誌のリニューアルをするそうです。その第一弾の特集がベトナムということで、僕が写真を撮ることになりました。
そんなわけで、当分このホームページの更新はできません。帰ったらまた報告します。2月4日 東京赤坂にある写真文化館にて、一ノ瀬泰造写真展「地雷を踏んだらサヨウナラ」写真展のオープニングを見に行った。展覧会の構成は、戦闘場面の写真ばかりではなく、子供たちや、戦時下の普通の人々の日常なども紹介されている。僕は彼のオリジナルプリントを見るのは今回が初めてだった。この写真展のために膨大な写真のなかから再構成して、新たにプリントしたのもだそうだ。一ノ瀬の写真は、いやゆるニュース写真だったため、多くは通信社で行うスピード現像だったと思われるので、ネガの調子は決して状態のよいものではなかったと思う。そのわりにはモノクロプリントは、しっかりとプリントされていて、気持ちがよい。残念ながらぼくの好きな、一ノ瀬がサイゴン動物園で撮影した、雨宿りする白いアオザイ姿の少女の、びしょ濡れの後ろ姿のカラー写真は紹介されていなかったが、全体的に一ノ瀬の写真の世界は充分堪能できるように構成されていた。
彼が死ぬ数日前に撮影した、親友ロックルーとその新妻を、沼のようなところで撮影した写真は、それまでの一ノ瀬の写真とはちょっと違っている。それは目の前に起きた出来事をストレートに撮っていたやりかたではなく、わざわざその水たまりを歩かせ、演出して撮影したものと思われる。足元の水面がきらきらと輝き、とても戦時下の緊張した時代であることを感じさせない。それは、それからの写真家一ノ瀬を暗示するようで興味深いし、この数日後に行方不明になり、その続編が見ることができなくなり、残念に思えた。
1月20日 今日Bunkamuraでアメリカ製ベトナム映画「季節の中で」"Three seasons"を観た。評判にたがわず、素晴しい映画だった。はじめて長編を撮ったこの監督は、1975年、サイゴン陥落のおり、2才でボートピープルとして一家がアメリカにわたった、TONY BUI。彼は19才のとき初めてベトナムを二週間訪れた。そのときはショックで5時間後には帰りたくなったそうだ。ところがアメリカに帰るとすぐに戻りたくなったという。この映画は、アメリカとベトナムの、初めての交感だと思う。交感が描かれているという意味ではなく、アメリカ人とベトナム人が協力して作り上げたベトナム映画という意味でもあるし、ここにあるのはアメリカとベトナムの戦争により引き起こされた悲劇のかずかずを、この映画によって、「浄化」するこころみだと思う。現在の一見美しくないベトナムの裏通りやその生活のなかに、アメリカ的な価値観からは貧しいだけにしかみえない濁った泥水のなかに、美しい蓮の花が咲く。ベトナム系アメリカ人であるTONY BUI自身の心の「浄化」がテーマではないだろうか。
OCTOBER FILMSのホームページ
http://www.vietscape.com/movies/3seasons/screening.html先日、昭和56年に、64歳で亡くなった、ぼくの父、横木謙雄の戦争中のアルバムを見つけた。新聞記者だった父が、まだ学生時代、弱冠21、3歳の頃、ちょうど時は太平洋戦争まえ、昭和12、3年、それは「支那事変出征記念冩眞帖」と表題された、厚さ約3センチ、B5サイズの写真帖だった。ぼくは父親から戦争の話をほとんど聞いていない。そして父が亡くなったのが、ぼくの30代、すでに別に暮らしていたので、父の遺品をみるが機会が今までなかった。当時徴兵され戦地にいくと、このような写真帖がいつもつくられたのだろうか。激戦の太平洋末期でもこのような写真帖はつくられたのだろうか。中味は学校の卒業アルバムのように、印刷された写真が収められ、それ以外の写真は父が貼ったと思われる。いろいろな切り抜きもあったが、一番印象的な写真は「悲しき凱旋」と父が題した写真だった。アルバムの前のほうには、その写真と似た写真が貼ってあり、そこには行進する、父自身が写っていた。ところがもう一枚の写真は、たぶん父の生地のそば、新潟県新発田市の凱旋行進の写真だろうか、よく目を凝らしてみると、遺骨を胸に抱く兵士がおびたたしい人数いるではないか。
(下の写真は父親が写っている。「添田部隊遺骨環送儀伏兵トナリテ」と読める)
この列はこれで終わっているわけではない。どのぐらい続いているのかわからない。父の出征した支那事変は、後の太平洋戦争と違って、まだ生存率は高かったのかもしれないが、それでもこんな小さな街だけでも、生きて帰れなかった人間がいるなんて、もしかしてあちら側に、父がいるいた可能性だってあったのだ。もしそうだったらぼくは存在していないわけだし……などと、不思議な気持ちになってしまった。戦争のアルバムは、こうやってみると、まるで反戦写真帖になっているな、って感じた。
1月14日 1月8日に、ちょっと変わったnudeの雑誌『FAKE/OFF』をだしました。nudeばかりか、なぜかVLADIVOSTOKの写真まで載ってます。表4(裏表紙)は、ベネトンの広告のふざけたパロディ?(と呼べるようなしろものではありませんが)、となにしろくだらないことと、今の日本のある種の現実と、をシンプルにre-mixした雑誌です。読むとヘビーなことも書いてあります。今雑誌がまったく売れない時代になってきてます。特に男性誌と呼ばれるものは、進化が止まっています。これからのこの手の雑誌のアイデアの元になるような、車でいえばプロトタイプといった、こなれていないけど、何かひっかかる雑誌をと思い、作ってみました。書店などでみかけたら、見てみてください。できればちょっと高いけれど、¥980買ってください。お近くの書店になければ。M英知出版営業部03-5229-4350で尋ねてください。
1月8日 「サイゴンの昼下がり」の紹介から初めてたホームページも、去年の7月から自分で制作するようになって、かなり大きなサイトになってきました。独自ドメインもとり、メインのホームページも新に制作しました。色々と充実させてくると、さて、初めた当初の目的、多くの方にベトナムを知って欲しいと望んでいたことが、僕の本を読まない人(たしかに本は買って欲しいのですが、情報量としはこのベトナムサイトの10倍はあると思います)にも、僕が見たベトナムを知ってもらおうと思い、制作することにしました。これからまだまだ充実させるつもりです。時々覗いていみてください。
それでもやっぱり、「サイゴンの昼下がり」を直接読んでもらえたらなと思います。新潮社に直接かクロネコヤマトのブックサービスに電話(03-3817-0711)でも注文できます。詳しくは「サイゴンの昼下がり」のホームページの[ORDER]をご覧ください。1月5日 A HAPPY NEW YEAR AD2000
やはり、予想どおり何も起こらなかったY2K。諸外国と比べて対策の遅れていた分、土壇場での大騒ぎ。世界で一番地味じゃなかったのかな、ミレニアムのイベント。何とも日本的だな。あれだけ脅かして、あの大騒ぎなイベントをやらかすなんて、米国。各国景気浮揺に利用したっていうのに、日本はまんまと商売させられただけだ。マイクロソフトの陰謀だよ。Macユーザーのぼくとしては、コンピューターの不具合なんてなれっこなので、気にもしてなかった。本当はそういう次元の問題じゃないかもしれないが。だいたい車検にしても整備したらかえって調子の悪くなる車もあるし、Y2Kの対策のチェックで、プログラムをミスする確率は、どのぐらいだろう。ことし問題のインフルエンザのワクチンにしたって、その副作用の率と、インフルエンザで死ぬ割合、どうなっているのだろう。癌の手術もそうだけど。寿命を縮める手術のなんと多いことか。いってみれば、人為的ミスはプラスの方向にも、マイナスの方向にもあるわけだし、ミレニアムの外国の大イベントを見ると、マスコミの発達した単一情緒の国、日本って、ほんとナイーブな国民なんだなと思う。あぶない、あぶない。
昨日メールで、僕のホームページを読んだ、尾形 聡さんが、[EPISODO]で今使用している、POLAROID 195がなくなったら困ってしまうと書いたら、アメリカのNPC社から、復刻版がでていると知らせてくれた。http://www.npcphoto.com/。インターネットって素晴しいメディアだと思う。もっと、もっと、簡単にスピーディに使えるようになったらと思う。
1999年
12月30日 1999年も残りあと一日。別段人類滅亡もなさそうだし、残すイベントはY2K。いったい何が起こるのだろうか。興味しんしん。何も起きなかったりして、ふ抜けたAD2000年を迎えるのだろうか。それも‥‥‥。
僕は東京を脱出?.静岡県の三島と伊東に晦と新年は滞在予定。何かあったらカメラを持って帰るつもりだけれど。このホームページは1月5日から運転する予定。それではよいお年を。12月20日 戦争写真家一ノ瀬泰造のサイトを作りました。http://www.alao.co.jp/taizoichinose.html
僕が撮影した一ノ瀬泰造氏の学生時代、19歳の写真や、拙著「サイゴンの昼下がり」のなかの第9章で
「戦争写真家ロバート・キャパと一ノ瀬泰造」の章から抜粋して紹介してます。是非ごらんください。12月7日 今週発売の週刊宝石でウラジオストクの紹介をしている。
アサヒカメラの写真とは違い、スナップショットが多い。
12月6日 ここのページになかな書き込むことができない。たださぼっているわけではなく、
実は、来年2000年1月1日から、この建て増し状態のホームページをリニューアルしよう
と日夜、こつこつと制作中なのです。そのために独自ドメインを取りました。
http://www.alao.co.jp/ です。
11月25日 1999年12月号に発表した、ウラジオストクのホームページがようやく、ほぼ、完成しました。どうぞごらんください。表紙の写真はアナスタシア(12)と彼女のお母さん。ウラジオストクのアムール湾に面したムラビヨアムールスキー半島のちょうど真ん中ぐらいの場所にある、サナトリウム駅の海岸。湾の奥深くなので波がほとんどない。水も砂も美しい。リンホフテヒニカ4x5、レンズはスーパーアンギュロン65mmf8,フィルムはプロビア。横位置で撮影した写真の左右をトリミングしている。ウラジオストクのホームページのTOPページにある地図を参照してください。
11月18日 アサヒカメラ12月号でウラジオストク「さいはてのヨーロッパ」を紹介しています。そこでお知らせしたとおり、ウラジオストクのホームページもアップロードしました。まだまだ、未完成です。今月いっぱいには完成させる予定です。また週刊宝石では12月中に「90分で行けるヨーロッパ」というタイトルで紹介しています。どうぞごらんください。
11月1日 東京ファンタスティック映画祭99のチームオクヤマスペシャル、浅野忠信主演「地雷を踏んだらサヨウナラ」を見た。
10月26日今月は何かとあわただしく、なかなか書くことができない。
ウラジオストクのホームページを作ろうと思っているけれど時間がない。
アサヒカメラの12月号の、表紙と巻頭8ページでウラジオストクの作品が紹介される。
発売日は11月20日。その撮影ノートでウラジオストクのホームページを作ると言ってしまったので、早急にまとめなければと思っている。
10月15日、先日ロシア出身のモデルの撮影をした。僕が9月にウラジオストクに撮影に行ったときコーディネートをしてくれた、ALEKSEY君のお姉さんが最近始めたモデルクラブの女の子たちだ。16歳から19歳まで。東京の印象は?と聞くと、もっとゴージャスな街だと思っていたと答えた。
たしかに東京の街は全体を俯瞰すると巨大だけれど、ウラジオストクのような西洋的なレンガとコンクリートでできた都会からくると、東京は想像よりも豊かに見えないのかもしれない。もっとも彼等は、まだ広尾界隈しかしらないので、東京の巨大さは、想像すらできてないと思う。ただ僕が、ウラジオストクのロケから新潟空港に降り立つとき、下界の、田園が広がる新潟の街は、ほんの一時間半前に経験した都市と較べて、寂しい片田舎に見えたことは事実だ。以前、まだレインボーブリッジがなかったころ、東京の街の巨大さは、僕も実感できなかった。
巨大な都市は日常的に俯瞰できることによって、そのスケールがわかるのだと思う。
10月2日7月23日に見たベトナム映画「ナイフ」と同じ映画監督レ・ホアンの1997年に公開した、
「サイゴンからの旅人」を、東京の科学技術館サイエンスホールで見た。
この集まりは日本ベトナム友好協会が主催する「ベトナムからの風」と題して、
映画評論家の佐藤忠男氏の、ベトナム映画についての講演と、い
現代ベトナムの画家、レー・タン・トゥー氏(9/3-10/9まで絵画展を開催中)の講演、そして映画の上映イベントだった。映画の内容は、1975年の南北統一からしばらくたったとき、たぶん1980年前後だらろうか。一人の男が、サイゴンを訪れ、建物の地下に埋められた遺骨を掘り出す。そこには一緒にコンパクトが埋められていた。それは、ベトナム戦争中、サイゴン近郊の無人の住宅に、ゲリラ戦遂行中たてこもったとき、見たこともない、アメリカ製のコンパクトを戦友が見つけ、故郷に持ち帰りたいといっていたその場で、銃撃に倒れた。その遺骨を、サイゴン(ホーチミン市)からハノイの戦友の母親まで送り屆けるとう、ロードムービーだ。
まるで日本の戦後の混乱のような時代、闇物資を取り締まる公安検査の厳しい時代、その遺骨をめぐってさまざまなことが起きる。この映画も「ナイフ」と同様来年単館ながら上映される予定だ。レ・ホアン監督の二本の映画を見たことによって、彼の映画のテーマが理解できたような気がする。それはかつて一つだった国、同じ国民どうしが、二つに分断され、互いに敵味方にわかれ戦争をし、憎みあった歴史がある。今は再び統一したがいったいそのことによって民族はどのようになってしまったのか、と問いかけているのではないだろうか。
「彼等のヴェトナム」 講談社「本」の雑誌1999年9月号
出迎える彼の手を握るとひんやりと乾燥していた。僕とほぼ同世代の彼は、
元ヴェトコン、そして公安経験のある日本語通訳だ。その風貌は、
日焼けした浅黒い肌、鋭い眼光、小柄で細い鋼のような体つきと、
どこからみてもイメージ通りのヴェトナム人だ。
僕たちは一瞬視線をあわせて無言で笑った。日本を出発するまえ、
使い初めて半年という彼の携帯と、何度も話しあっていたので二人の気分はその連続線、それとも男同士の照れだろうか、そっけない一年半ぶりの再会の挨拶だった。
携帯電話が普及してからというもの、世界は確実に狭くなった。
それは固定された従来の電話とは決定的に違っている。
「もしもし、横木ですけど」
「モシモシ、ヨコギサン。チョットウルサクテ聞コエナイデス」
「今どこにいるの?」
「オ客サント、レストランデ食事中デス」
「だいじょうぶ?」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ!」
こんなふうに、携帯電話はところ構わず相手の日常に飛び込んでゆく。
日本では気にもしてなかったけれど、ほんの半年前までは、
電話でさえ満足に連絡が取れない、ファックスが唯一確実なコミュニケーションだった国で、いつでも彼を捕まえられるという不思議さは、
一九九四年に初めて訪れたときに感じたこの国の、
素朴な印象からは想像できない現実だった。
ホーチミン市はこの五年間ですっかり変わった。
白ペンキに塗られていた市民劇場は、
一九三〇年代のオペラ劇場と呼ばれていたそのままに優雅に修復され、
中心街からサイゴン川に連なるグエンフエ通りの広い中央分離帯にあった土産や花屋は撤去された。
そしていつもホテルの前でたむろしていたシクロの集団は、
いくつかの通りから追放され、バイクはさらに増え、
日本製や韓国製、そしてドイツ製の真新しい自動車が目につくようになった。
洒落たレストランやブティックがそこら中にOPENし、
初めて訪れたときに梯子した、偽物のアンティック時計を売る店は目立たなくなった。
街はみるみる整備され、猥雑な心地よさはすっかり消えていた。
気候をのぞけば、まるでヨーロッパの小都市のようなたたずまいになるのも時間の問題だ。
たしかにヴェトナムのどこを訪れても、かつてより豊かになった。
活気に溢れ、商品も溢れている。人々は明るく、
まるで日本の戦後のように高度成長の真っ最中に見える。
ただ、ひとりひとりを見ると、例えば僕の友人の彼にしても、
この数年間で豊かになったとは思えない。二台あったバイクは一台になり、
残った新車のバイクは、すぐに盗まれてしまった。今は友人から借りているという。
家にはテレビも洗濯機もパソコンもあるけれど、
アジア経済が冷え込んでからはヴェトナムも不況となり、
彼が作った旅行会社のオフィスは畳まれ、今は一人自宅で営業だ。
やっていけないので、日本の漢方薬会社と契約しているが、
能率の悪いヴェトナムのその業種との交渉はトラブルが絶えないらしい。
今回は僕にとって五回目のヴェトナムだった。
拙著「サイゴンの昼下がり」を上梓するにあたり、それまで全くメモすることなく、
雑談として記憶していた、彼のさまざまなエピソードを再度確認することと、
何ケ所か見逃した土地を撮影することだった。
僕たちは旅のあいだ、いつも同じ部屋に泊まった。
ヴェトナムの軽井沢と呼ばれる避暑地、高原の街ダラットでは、
フランスのシャトーホテルのような豪華なホテルに宿泊した。
客室は広く、天蓋つきのベッド全体は蚊帳が覆い、
新婚旅行にぴったりの部屋で、中年の男二人がそれぞれのベッドで寝ている様子は、
異様な光景だった。しかも毎晩響く、彼の歯ぎしりにはその晩も悩まされた。
朝になるとよく整備されたホテルの広大な前庭には、
ヴェトナム人団体旅行客が大勢あつまり、ホテルを背景に記念写真を撮っていた。
彼等は旧市街にある小さなホテルに泊まっているらしい。
僕たちは、朝のさわやかな風が抜ける、眺望のよい、
ホテルのレストランで朝食をとった。
礼儀正しいヴェトナム人のギャルソンが注文を取りにきた。
僕たちははまったく同じものを注文した。
固めの両面焼の卵二つとベーコン、クロワッサン、
それにオレンジジュース。昨日の夕食も、僕とまったく同じものを彼は食べた。
「おいしい?」と聞くと、
「おいしい」と答えた。
ベトナム映画実行委員会パンフレット原稿1999年9月
「魅惑のベトナム」
ホーチミン市の表玄関タンソンニュット空港の、税関検査を無事通り抜けると、
鈴なりに重なるおおぜいの熱い視線が柵越しに出迎えている。そんな人いきれや、鼻につく排気ガスや、焼けたオイルの臭い、そして肌にまとわりつ
くベトナム特有の湿った空気と熱気が、たちまち僕の毛穴という毛穴を全開にする。
またベトナムに来てしまった。決して快適な気候とはいえないこの土地を、
訪れるたびに感じる、なんとも不思議な期待感と充足感はどうしてなのだろう。
ベトナムにいると自分の体温や流れる汗を意識する。肉体的な調節機能が試されている。五感は鍛えられ、それをフル動員すること
によって、さまざまなことが感じられる。
においや音や、踏みしめる地面や、光に敏感になる。
見るものの彩度は増して街が原色に見えたりもする。
雨が降ればその雨粒の感触を楽しみたくなる。
そしてなによりも肌をすり抜けるわずかな風が大好きになる。
たとえばサイゴン川を渡る早朝の風、
メコンデルタクルージングのまどろみを誘う風。
ニャチャンの日中の凪が終わる瞬間の風。
ダラットの高原をぬける乾燥した風。
ハロン湾のすこし生臭い風。
六月のハノイの脂汗をしぼりだす、無風という湿度の飽和した風。
五感が敏感になると、脳はすこし弛緩する。
ベトナムにいると物欲が抑えられる。平和な暮らしに憧れる。
誰と会っても楽しくなる。
こずるいシクロのドライバーや、最近問題
の悪質なスリの連中でさえ笑っているので善良に見えたりしてしまう。
あのアメリカと戦った力を彼等はどこにかくしているのだろう。
きっと今ではたっぷり食べられる野菜中心のベトナムの食事が、
人々の心を穏やかにするのだろうか。
たしかにアオザイの女性は皆文句なく美しい。
彼等のベトナム語はとても優雅に聞こえる。
かつての日本も、こんなふうにゆっくりと時間が流れていたのだろうか。
だから一度ベトナムを訪れると皆とりこになってしまう。
9月26日 夜になるとすっかり秋めいてきた。
先日訪れていた、ウラジオストクの日本語ガイドのアレクシー君から、
この数日ですっかり肌寒くなったとメールがあった。東京は日中はまだまだ暑く、
冷房が欠かせないけれど、ウラジオストクは短い秋から、突然冬になるらしい。
11月を過ぎると、雪は少ないが、氷点下10度から20度にもなるという。
ウラジオストクから帰ってからは、いろいろ忙しく、
それに撮った写真の整理にも時間がかかり、なかなかホームページ上で
紹介できない。しかし今月中に第一報として、紹介するつもりだ。
それに、雑誌などで発表したその後、新たに独立したホームページを
作ってみようと思う。
お楽しみに。
昨日、ウラジオストクから帰ってきた。印象は想像以上の興味ふかい街だった。ショックだったともいえる。詳しい報告は、写真を交えてそのうち報告するが、一番の驚きは、東京から車で3時間半飛ばして、新潟までゆき、そこからウラジオストク航空で、たったの一時間半。そこは、いわゆるアジアではなく、西洋文化圏、正確には東欧文化圏の極東の国が存在していることだ。一時間半というと、国内線の感覚だ。たったそれだけで、まったく異文化の白人国家を体験できるなんて、ヨーロッパやアメリカ大陸に住む人間にとってそれは、ごく普通なことだろうが、アジアの最果ての日本からも、こんなに近くに異文化を体験できる場があることを知り僕は嬉しくなってしまった。
しかも、ウラジオストクはまぎれもなく大都会だった。
街の規模は名古屋ぐらいだろうか、
ソ連が崩壊する以前は街はよく整備され、海岸には
日本でも今はやりのボード・ウォーク?っていうなのかな、
海岸に板張りの遊歩道がある。
トロリーバス(電気で走るバス)が走り、
市電が走り、ケーブルカーがあったりと、
街の地形的にいえば、アップダウンがあってサンフランシスコのようだ
かつては、かなり社会資本が充実していたようだ。
しかしペレストロイカで街は荒れ放題になってしまい、現在は
徐々に回復中というところだ。
人口は80万人と少ないが、
ヨーロッパの街のように街全体が居住地のようで、とても活気に溢れている。
夏の気候は、北海道とも違う、暑いけれど涼しい、(20度から27度、冬は-10度から-20度)
乾燥していて不思議な空気感だ。
夏のあいだ、女性たちは美しい足を見せびらかすように、街じゅう
ミニスカートのオンパレードだ。誇張ではなく、皆足が長く美しい。
9月だと、午前7時半ごろ夜があけ、暗くなるのは午後9時だ。
(夏のあいだ日本とは一時間の時差と夏時間の合計2時間の時差がある)
真夏だったらもっと日が長い。
まだ若い女性が旅するにはいろいろ整っていないのでお薦めできないが、
(はっきりいってトイレ事情が悪い)
数年後、5年ぐらいたったら、日本人にとって、素晴しい
避暑地として、大観光スポットになると思う。
食事はおいしい。ホテルも奇麗なのがある。
海も日本海とは思えないぐらい、明るく美しい。
クラブもある。お洒落な子たちもいる。
9月8日 明日9日の朝から、ロシアのウラジオストクに行く。8/22にも書いたが、
カメラ雑誌と某週刊誌のドキュメンタリーだ。日本に一番近いヨーロッパ。
いったいどんな風景で、どんな風がながれているのだろうか。
8日間のほんの短い旅だけれど、帰ったらどんな場所だったか報告します。
9月2日 ロケでハワイに行ってきた。天気は最高、オフにはブギボートまでやった。
ハワイに行くたびに思うことだけれど、ここの気候は、本当に世界で一番きもちがいい。
この土地の晴れた日の、木陰を抜ける何ともさわやかな風は、他に比べるものがない。
1973年に初めて行ったときから、もう数え切れないぐらい訪れているので、
今さらハワイが好きだと普段は言わないけれど、
実際撮影するなら未知の場所に行くことが僕は好きなので、
自分からロケ先をハワイに決めることは殆どない。
ただ日本のカメラマンにとって、ハワイはオープンスタジオみたいなものだ。
日本にいるときと、何ら変わらないやりかた、生活、
いやそれ以上にずっと効率的に撮影できるからだ。
そして根本的に違う、光と風土、豊かな自然。
特に新人タレントの撮影の場合だったら、ハワイロケはステイタスだ。
出版社やタレント事務所の力の入れかたが違うというものだ。
今回は時間に余裕があったので、ワイキキの海岸をカメラを持ってぶらぶらと歩いた。
なんだか砂浜が以前より狭くなった印象だ。ワイキキ海岸は良く知られているように
人工の砂浜だ。北のサンセットビーチの白い砂が運びこまれている。今では
日本人観光客に占領されているが、僕が初めて訪れた1973年は
まだ日本人観光客は少なかった。そのとき僕が撮った写真を紹介する。
この写真は、僕がまだアシスタント時代にオフの時に撮った写真だ。
最初の写真展に発表した。タイトルは
「Three old graceful tourist--Waikiki,Hawaii,January 1973」
こんな閑散としたワイキキビーチは今では想像できない。
Canon F-1 24mm f2.8 TRI-X
8月23日 7月28日に僕がここで紹介した、ベトナム映画「ナイフ」などが紹介されたホームページが公開されました。どうぞごらんください。http://www.asia-movie.com/
8月22日 夏休みやら、ロケやらで更新する時間がなかった。それに25日からはHAWAIIに
ロケなので、また一週間以上更新できない。
9月に入ってから一週間、ロシアのウラジオストクへ行ってみようと思っている。
以前から興味があった土地だ。ソ連時代は軍港だったため隔離されていた都市だ。
最近、ウラジオストク出身の、日本に留学していた女性を友人から紹介してもらい、
彼女の弟がそこで通訳とコーディネターをしていると聞き、
さっそく行くことにした。
そこで撮影した写真をアサヒカメラの12月号の表紙と
口絵で発表するつもりだ。その他ある週刊誌にも発表の予定だ。
なぜウラジオストクかというと、新潟から飛行機で一時間半の隣国、
土地はアジアかもしれないが、ヨーロッパ文化圏のはしっこ、
言い替えれば日本から一番近い西洋文化圏のその土地を、
僕は何も知らない。だからこそ是非見たいと思ったのだ。
たまたま今日の夜、BSで「シベリア鉄道1万キロの旅」という
作家の村山由佳が旅する番組をやっていた。僕にとってタイムリーな番組だった。
8月12日 本日より、このサイトでも紹介している、TWILIGT TWISTの
作品を集めた、コーナーをアップロードします。どうぞごらんください。
8月10日
拙著「サイゴンの昼下がり」のなかで取り上げた戦争写真家一ノ瀬泰造氏は、僕の大学時代、同じサークルの一つ先輩だ。かつて僕が写真を始めたころ撮影した、一ノ瀬氏の学生時代の写真を、彼の両親に贈るため、古いネガを捜し、プリントした。一ノ瀬泰造がカンボジアのアンコールワットに消えて26年。もうそんなになってしまうんだと思いながらも、彼が生きた26年間の歴史と同じだけ時間が過ぎ去ったことは、感慨ぶかい。書簡集と写真で綴られた1978年に発表された「地雷を踏んだらサヨウナラ」が、浅野忠信主演で、2000年の正月映画として公開される。今の時代に、一ノ瀬泰造の生き方がどのように受け入れられるのか興味がある。戦争写真家一ノ瀬泰造のサイトを作りました。1999年12月20日どうぞそちらをご覧ください。
8月7日
暑い日が続く。しかも夏とは思えないような、澄んだ空が広がっている。
快適か不快かは別にして、カメラマンとしては日本の空がいつもこうだったら良いのにと思う。
実際この間に都内で撮影したフィルムの発色はまるでハワイのようだった。
写真家にとって光は決定的な要素だ。
日本には四季があってさまざまな光と出会える。しかしなんでもあるようでいて、日本では
得られない光も実は多い。あったとしてもごく短い時間。たとえば最近の東京の
光は、たまたまであり、年に何回もあることではない。計算できる光ではない。
日本ではまったくありえない光は、
砂漠のような乾燥した土地の澄んだ光だ。
経験的な感想だが、湿度とフィルムの
発色には関係があると思う。
それと白夜のような光も日本では味わえない。
まだいろいろあるけれど、日本人は何事にも敏感だと自負しているようだが、
それぞれの文化には鈍感な部分と敏感な洗練された部分がある。
日本人は微妙な光には関心があっても、ダイナミックな光を知らない。
それは日本文化全てに言えることかも知れないが。
光についてもう一つの問題は、
緯度に関してだ。
日本から南の光を求めてロケにいく場合、ハワイかグアム、サイパン、バリが多い。
その島のどこも赤道に近い。たしかに素晴しい光かも知れないが、一つ問題がある。
日中は太陽が真上にあって、人物撮影をすると顔に影ができてどうにも美しく撮ることはできない。
この光の状態でレフ板を当てれば不自然な写真になる。
背景も全てが明るく照らされてメリハリがない。
結局人物撮影の場合、樹木の下などの日陰や、家の軒先や中で撮影することになる。
午後の斜光の時間になると、カラーフィルムでは色が赤くなってしまう。
当然といえば当然だ。赤みを抑えたければ、ブルーのフィルターで補正することになる。
ところが、かつて、僕が初めてヨーロッパに行ったとき、それも彼等の南国エーゲ海に
で撮影したときのことだ、日中の強烈な光が美しい斜光だったことに驚いた。
日中でも充分順光で撮影できた。季節は10月だ。その光は鮮烈だった。
僕はこのときばかりはヨーロッパのカメラマンに嫉妬した。
それと6月のフィンランドに行ったとき、
夜9時過ぎても、夕方の斜光が永遠と続く。僕は日本の日没の撮影のように慌ただしく撮っていたが、
一時間たっても、その光はほとんど変わらなかった。
日本人は日々微妙に変化する自然の、色彩や、そして気温や、食べ物に四季を感じるかもしれないが、
ヨーロッパ人は、そればかりか夏と冬のあまりに違う時間にも意味を感じているに違いない。
午後10時すぎなければ真っ暗にはならない季節があることは、日本では想像しずらい。
それにひきかえ、冬のパリは午前9時にあけ、午後3時は暗くなりはじめる。
冬は部屋にこもり勉強して、夏の長い昼間に外で遊ぶ。
そんな文化がヨーロッパ文明を創造したのだろうか。
童話シンデレラの12時の時報で魔法が解けてる話で、
まともな若い娘が夜中の12時までパーティに参加できるなんて日本じゃ考えられないだろう。
夜中の12時は、日本では草木も眠る丑三つ時(正確には午前2時から2時半だけれど、言葉のあやということで)。
でも夏のヨーロッパだったら、12時は夜になったばかり
ほんの宵の口、とても自然なことなのだろう。
7月28日
「ナイフ」1995年ベトナム作品/スタンダード/35mm/カラー/90min/
ベトナム映画協会副会長であり、ベトナムの若手映画監督レ・ホアン監督の出世作。第11回ベトナム映画際(1996年)審査員奨励賞を受賞。日本では、東京国際映画祭と同時期に開催されるアジアフィルムフェスティバルに上映されている。(ベトナム映画上映実行委員会事務局TEXTより)
(写真はレ・ホアン監督 1998.6 HCMC)
僕はこの映画を公開前にホーチミン市の、とある試写室で見た。
それは、1995年の夏、週刊文春のグラビア、原色美女図鑑でベトナムを取り上げたとき、女優でありバレリーナの、ミ・ズエンさんを取材したからだ。彼女はそのとき「最近映画を撮ったばかりだ」といった。内容に問題があり、上映を延期されているとのことだった。彼女は、その晩だったら、監督と一緒にその映画を見られるかもしれないと言った。
ミ・ズエンは10才の時、それは旧ソ連時代のことだ、ホーチミン市で開催された、世界的なバレリーナを多数輩出したレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)のワガノワ・バレー学校のオーディションに合格した。1000人のなかから選ばれたのは2人だった。彼女は8年間寄宿生活をしながらバレーを学んだ。その間ベトナムに戻ったのは、たった一度だけだった。卒業後ノボシビルスク劇場で踊りはじめる。しかしソ連が解体して、ロシアになり、状況は一変した。不安に思った家族の要請で、一時ベトナムに帰国。すぐに戻るつもりで往復切符を買った。
ところがロシアに戻るビザは二度と発行されることはなかった。
ホーチミン市には、満足にクラシックバレーを踊る場所はない。
失意の彼女は、いくつかの映画を経て、あるときレ・ホアン監督に出会う。
そこで彼女は映画に主演することになった。
このエピソードは、僕の拙書、今年1月に出版した「サイゴンの昼下がり」のなかの、「居場所のないバレリーナ」の章にくわしく書いた。昨年1998年の夏ベトナムに訪れたとき、僕は印象的だったミ・ズエンさんのその話を書こうと思い、再会した。監督のレ・ホアン氏も同席した。4年ぶりの彼は、ベトナムで最も有名な映画監督になっていた。彼は日本のある会社が、来年、彼の映画を日本で紹介する予定になっているといった。そして、僕のホームページを見た、この映画上映の関係者から、ある日メールが届いた。僕の本も読んでいるという。そんなきっかけで、僕は4年ぶりにこの映画の試写を見ることになった。
まず驚いたのは、ベトナムでの試写は画面がかなり暗く、どこか古くさいイメージがあったが、今回、日本で新たにプリントしたので、とても美しい現代の映画になっていたことだ。映写機の性能も違うのかもしれない。そして日本語字幕つきだったので、内容はずっと深く理解できた。1995年当時のこの映画が問題になったのは、映画のなかで革命軍(ベトコン)と政府軍(傀儡政権軍)の双方を、良くも、悪くも公平に表現したからだ。しかも共産主義を嫌うキリスト教の村が舞台だ。ヒロインの少女の母親はベトコンに強姦され死んでいる。こんなこと表現することは、きっとそれまでのベトナムでは考えられなかったろう。
以前観たときは、当然ベトナム語なので簡単なストーリー以外は、
理解できなかった。革命軍と政府軍のそれぞれのリーダーが二人とも人格者であるとは、わからなかった。そのかわり、音や、声や、映像に集中した。
ミ・ズエンの美しい声が印象的だったことを覚えている。
今回再度観て、僕の記憶の不確かなところが、それ以外にもいくつかあった。
それはラストシーンで、彼女と、革命軍の兵士、それに政府軍の兵士が
もつれる高い塔が、そして彼女が落下するその塔が、教会の鐘堂だったことだ。僕の記憶ではそこのところが不鮮明だった。記憶に残っていたのは、掛けられた梯子がゆらゆら揺れる竹の梯子だったことだ。なぜ彼女がその塔に登ったか、記憶がなかった。今回観てはじめて理解できた。
この映画は、株式会社グループ現代が事務局となり、来年に公開される予定だ。興味のあるかたは、phone.03-3341-2863fax03-3341-2874 (株式会社グループ現代)で、これからの予定などお尋ねください。この「ナイフ」の他、同監督の「サイゴンからの旅人」と、グエン・トゥオン・フォン監督の「ロイテ-誓い-」も同時に公開される予定だ。「ナイフ」などを紹介した、ベトナム映画のホームページがあります。リンクしてますので、どうぞご覧ください。
http://www.asia-movie.com/
週刊ポスト誌で、水着の新人タレントを8人を3日間に渡って撮影した。
そのなかの眞鍋かおり(19)が印象的だった。
伸びやかなスタイル。シャープな頭脳。愛媛県海上市出身、現在横浜国大一年生。
165-84-55-80
東京にでてきて、一番違うことは、やたらに歩くようになったことだという。
田舎ではどこに行くのも自転車だ。中国のように街に自転車が溢れているらしい。
7月21日 お知らせ
講談社FRaUの7/27日号の表紙となかのグラビアで、及川光博氏、ミッチーを撮影してます。 CD欲望図鑑のジャケット写真にもなっています。FRaU誌上の写真もCDの写真も、背景の合成以外、T・T(TWILIGTTWIST)で撮影してます。7月19日
ことし出版した「サイゴンの昼下がり」のなかで、ロバート・キャパの最期の土地を訪ねたことを書いた。彼が死ぬ間際に撮った写真に、彼の死んだ場所が絶対に写っていると、僕は考えたからだ。しかしさまざまな事情で確定するに至らなかった。ロバート・キャパの最期の写真に似た場所は発見したが、あくまで少ない資料からの推量だ。この件に関しては「サイゴンの昼下がり」新潮社の「一ノ瀬泰造とロバート・キャパ」の章でくわしく書いてある。その写真は下記をクリックすると見ることができます。ロバート・キャパの写真もリンクしているので参照してください。ロバート・キャパ最後の土地
僕は再度準備をしてその土地を訪れようと思っている。それには、キャパのヴェトナムでの最期のコンタクトプリントを見れば、足取りがわかる。今はキャパの弟のコーネル・キャパかICPが管理しているらしい。
僕の大学時代の友人のS氏、もとPPS通信社に勤めていて、1984年のロバート・キャパの展覧会に関わっていた。先日彼からもらった情報を引用します。
1984年6月銀座松屋での写真展「ロバート・キャパ展 戦争と平和」は、企画構成を その最初から手がけた、思い入れのある展覧会です。展示作品でも示しましたが、また 展覧会図録にも掲載していますが、それまで構成上決まっていた作品に加え、モノクロの 最後の作品(インドシナ 1954年)20点と最後となったカラー16点をそのとき初めて公開しました。モノクロのコンタクトプリントはそのものを見ていませんが、この20点が 最後の写真の直前を含めたほぼすべてと思われ、また、カラーの16点は最初の1枚だけは 日本で撮影されていますが、最後の写真を含めた直前の写真の全てです。 日本で世界に先駆け初公開したわけですが、厳密にはそれ以前では、そのうちの カラー1点のみが当時「CAMERA」誌に発表されたものでした。 カラーはコダクロームで1点以外はその当時現像したままの状態で紙のマウントに続き番号が 刻印されていました。制作に使用後、オリジナルは東京展終了後コーネルに返却しています。 展示した最後のカメラも。(後、そのカメラ=Nikonは富士美術館に寄託されています) 展示写真のキャプションはアナ・ワイナンドによるものだったと思います。
7月16日
先日、K-1戦士、ブラジル人のフランシスコ・フィリオを、
週刊ポスト「PEPOLE」の頁のために撮影した。(掲載号はまだ未定たぶん9月か10月)
ことしの11月に、極真空手世界大会が開かれるそうだ。そのためK-1グランプリは参加しない。
今まで極真空手世界大会で、外国人は一度も優勝をしていない。
彼が優勝候補の一人だが、日本側は死守するつもりだ。
いろいろな理由で外国人が、優勝するのは困難らしい。
それでも今一番、強いのは彼なのだから、がんばってほしい。
フィリオは今年、その大会に優勝してもしなくても、
空手界からは引退するつもりらしい。
来年はK-1に専念するといっていた。
昨年、K-1 GRANDPRIX'98
では、マイク・ベルナルドに人生初めてのノックアウト負けをした。
空手家としては超一流でも、キックボクサーとしてはまだまだ未熟なのかもしれない。
特にボクシングに関しては、技術を充分に習得する必要があるという。
敗れたときは、悔しかったらしいが、今は少しも悔しくないという。
リベンジを誓ってK-1に本格的に乗り込むのだろう。
なんて、格闘技ファンの私でした。