1999年12月30日 1999年も残りあと一日。別段人類滅亡もなさそうだし、残すイベントはY2K。いったい何が起こるのだろうか。興味しんしん。何も起きなかったりして、ふ抜けたAD2000年を迎えるのだろうか。それも‥‥‥。
僕は東京を脱出?.静岡県の三島と伊東に晦と新年は滞在予定。何かあったらカメラを持って帰るつもりだけれど。このホームページは1月5日から運転する予定。それではよいお年を。

12月20日 戦争写真家一ノ瀬泰造のサイトを作りました。http://www.alao.co.jp/taizoichinose.html
僕が撮影した一ノ瀬泰造氏の学生時代、19歳の写真や、拙著「サイゴンの昼下がり」のなかの第9章で
「戦争写真家ロバート・キャパと一ノ瀬泰造」の章から抜粋して紹介してます。是非ごらんください。


12月18日 


12月7日 今週発売の週刊宝石でウラジオストクの紹介をしている。
アサヒカメラの写真とは違い、スナップショットが多い。



12月6日 ここのページになかな書き込むことができない。たださぼっているわけではなく、
実は、来年2000年1月1日から、この建て増し状態のホームページをリニューアルしよう
と日夜、こつこつと制作中なのです。そのために独自ドメインを取りました。
http://www.alao.co.jp/ です。


11月25日 1999年12月号に発表した、ウラジオストクのホームページがようやく、ほぼ、完成しました。どうぞごらんください。表紙の写真はアナスタシア(12)と彼女のお母さん。ウラジオストクのアムール湾に面したムラビヨアムールスキー半島のちょうど真ん中ぐらいの場所にある、サナトリウム駅の海岸。湾の奥深くなので波がほとんどない。水も砂も美しい。リンホフテヒニカ4x5、レンズはスーパーアンギュロン65mmf8,フィルムはプロビア。横位置で撮影した写真の左右をトリミングしている。ウラジオストクのホームページのTOPページにある地図を参照してください。


11月18日 アサヒカメラ12月号でウラジオストク「さいはてのヨーロッパ」を紹介しています。そこでお知らせしたとおり、ウラジオストクのホームページもアップロードしました。まだまだ、未完成です。今月いっぱいには完成させる予定です。また週刊宝石では12月中に「90分で行けるヨーロッパ」というタイトルで紹介しています。どうぞごらんください。



11月1日 東京ファンタスティック映画祭99のチームオクヤマスペシャル、浅野忠信主演「地雷を踏んだらサヨウナラ」を見た。



10月26日今月は何かとあわただしく、なかなか書くことができない。
ウラジオストクのホームページを作ろうと思っているけれど時間がない。
アサヒカメラの12月号の、表紙と巻頭8ページでウラジオストクの作品が紹介される。
発売日は11月20日。その撮影ノートでウラジオストクのホームページを作ると言ってしまったので、早急にまとめなければと思っている。


10月15日、先日ロシア出身のモデルの撮影をした。僕が9月にウラジオストクに撮影に行ったときコーディネートをしてくれた、ALEKSEY君のお姉さんが最近始めたモデルクラブの女の子たちだ。16歳から19歳まで。東京の印象は?と聞くと、もっとゴージャスな街だと思っていたと答えた。
たしかに東京の街は全体を俯瞰すると巨大だけれど、ウラジオストクのような西洋的なレンガとコンクリートでできた都会からくると、東京は想像よりも豊かに見えないのかもしれない。もっとも彼等は、まだ広尾界隈しかしらないので、東京の巨大さは、想像すらできてないと思う。ただ僕が、ウラジオストクのロケから新潟空港に降り立つとき、下界の、田園が広がる新潟の街は、ほんの一時間半前に経験した都市と較べて、寂しい片田舎に見えたことは事実だ。以前、まだレインボーブリッジがなかったころ、東京の街の巨大さは、僕も実感できなかった。
巨大な都市は日常的に俯瞰できることによって、そのスケールがわかるのだと思う。


10月2日7月23日に見たベトナム映画「ナイフ」と同じ映画監督レ・ホアンの1997年に公開した、
「サイゴンからの旅人」を、東京の科学技術館サイエンスホールで見た。
この集まりは日本ベトナム友好協会が主催する「ベトナムからの風」と題して、
映画評論家の佐藤忠男氏の、ベトナム映画についての講演と、い
現代ベトナムの画家、レー・タン・トゥー氏(9/3-10/9まで絵画展を開催中)の講演、そして映画の上映イベントだった。映画の内容は、1975年の南北統一からしばらくたったとき、たぶん1980年前後だらろうか。一人の男が、サイゴンを訪れ、建物の地下に埋められた遺骨を掘り出す。そこには一緒にコンパクトが埋められていた。それは、ベトナム戦争中、サイゴン近郊の無人の住宅に、ゲリラ戦遂行中たてこもったとき、見たこともない、アメリカ製のコンパクトを戦友が見つけ、故郷に持ち帰りたいといっていたその場で、銃撃に倒れた。その遺骨を、サイゴン(ホーチミン市)からハノイの戦友の母親まで送り屆けるとう、ロードムービーだ。
まるで日本の戦後の混乱のような時代、闇物資を取り締まる公安検査の厳しい時代、その遺骨をめぐってさまざまなことが起きる。この映画も「ナイフ」と同様来年単館ながら上映される予定だ。レ・ホアン監督の二本の映画を見たことによって、彼の映画のテーマが理解できたような気がする。それはかつて一つだった国、同じ国民どうしが、二つに分断され、互いに敵味方にわかれ戦争をし、憎みあった歴史がある。今は再び統一したがいったいそのことによって民族はどのようになってしまったのか、と問いかけているのではないだろうか。


9月27日           

「彼等のヴェトナム」 講談社「本」の雑誌1999年9月号

 出迎える彼の手を握るとひんやりと乾燥していた。僕とほぼ同世代の彼は、
元ヴェトコン、そして公安経験のある日本語通訳だ。その風貌は、
日焼けした浅黒い肌、鋭い眼光、小柄で細い鋼のような体つきと、
どこからみてもイメージ通りのヴェトナム人だ。
 僕たちは一瞬視線をあわせて無言で笑った。日本を出発するまえ、
使い初めて半年という彼の携帯と、何度も話しあっていたので二人の気分はその連続線、それとも男同士の照れだろうか、そっけない一年半ぶりの再会の挨拶だった。
 携帯電話が普及してからというもの、世界は確実に狭くなった。
それは固定された従来の電話とは決定的に違っている。
「もしもし、横木ですけど」
「モシモシ、ヨコギサン。チョットウルサクテ聞コエナイデス」
「今どこにいるの?」
「オ客サント、レストランデ食事中デス」
「だいじょうぶ?」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ!」
 こんなふうに、携帯電話はところ構わず相手の日常に飛び込んでゆく。
日本では気にもしてなかったけれど、ほんの半年前までは、
電話でさえ満足に連絡が取れない、ファックスが唯一確実なコミュニケーションだった国で、いつでも彼を捕まえられるという不思議さは、
一九九四年に初めて訪れたときに感じたこの国の、
素朴な印象からは想像できない現実だった。
 ホーチミン市はこの五年間ですっかり変わった。
白ペンキに塗られていた市民劇場は、
一九三〇年代のオペラ劇場と呼ばれていたそのままに優雅に修復され、
中心街からサイゴン川に連なるグエンフエ通りの広い中央分離帯にあった土産や花屋は撤去された。
そしていつもホテルの前でたむろしていたシクロの集団は、
いくつかの通りから追放され、バイクはさらに増え、
日本製や韓国製、そしてドイツ製の真新しい自動車が目につくようになった。
洒落たレストランやブティックがそこら中にOPENし、
初めて訪れたときに梯子した、偽物のアンティック時計を売る店は目立たなくなった。
街はみるみる整備され、猥雑な心地よさはすっかり消えていた。
気候をのぞけば、まるでヨーロッパの小都市のようなたたずまいになるのも時間の問題だ。
 たしかにヴェトナムのどこを訪れても、かつてより豊かになった。
活気に溢れ、商品も溢れている。人々は明るく、
まるで日本の戦後のように高度成長の真っ最中に見える。
 ただ、ひとりひとりを見ると、例えば僕の友人の彼にしても、
この数年間で豊かになったとは思えない。二台あったバイクは一台になり、
残った新車のバイクは、すぐに盗まれてしまった。今は友人から借りているという。
家にはテレビも洗濯機もパソコンもあるけれど、
アジア経済が冷え込んでからはヴェトナムも不況となり、
彼が作った旅行会社のオフィスは畳まれ、今は一人自宅で営業だ。
やっていけないので、日本の漢方薬会社と契約しているが、
能率の悪いヴェトナムのその業種との交渉はトラブルが絶えないらしい。
 今回は僕にとって五回目のヴェトナムだった。
拙著「サイゴンの昼下がり」を上梓するにあたり、それまで全くメモすることなく、
雑談として記憶していた、彼のさまざまなエピソードを再度確認することと、
何ケ所か見逃した土地を撮影することだった。
 僕たちは旅のあいだ、いつも同じ部屋に泊まった。
ヴェトナムの軽井沢と呼ばれる避暑地、高原の街ダラットでは、
フランスのシャトーホテルのような豪華なホテルに宿泊した。
客室は広く、天蓋つきのベッド全体は蚊帳が覆い、
新婚旅行にぴったりの部屋で、中年の男二人がそれぞれのベッドで寝ている様子は、
異様な光景だった。しかも毎晩響く、彼の歯ぎしりにはその晩も悩まされた。
 朝になるとよく整備されたホテルの広大な前庭には、
ヴェトナム人団体旅行客が大勢あつまり、ホテルを背景に記念写真を撮っていた。
彼等は旧市街にある小さなホテルに泊まっているらしい。
 僕たちは、朝のさわやかな風が抜ける、眺望のよい、
ホテルのレストランで朝食をとった。
礼儀正しいヴェトナム人のギャルソンが注文を取りにきた。
僕たちははまったく同じものを注文した。
固めの両面焼の卵二つとベーコン、クロワッサン、
それにオレンジジュース。昨日の夕食も、僕とまったく同じものを彼は食べた。
「おいしい?」と聞くと、
「おいしい」と答えた。


ベトナム映画実行委員会パンフレット原稿1999年9月

 「魅惑のベトナム」
       
 ホーチミン市の表玄関タンソンニュット空港の、税関検査を無事通り抜けると、
 鈴なりに重なるおおぜいの熱い視線が柵越しに出迎えている。そんな人いきれや、鼻につく排気ガスや、焼けたオイルの臭い、そして肌にまとわりつ
くベトナム特有の湿った空気と熱気が、たちまち僕の毛穴という毛穴を全開にする。
 またベトナムに来てしまった。決して快適な気候とはいえないこの土地を、
訪れるたびに感じる、なんとも不思議な期待感と充足感はどうしてなのだろう。
 ベトナムにいると自分の体温や流れる汗を意識する。肉体的な調節機能が試されている。五感は鍛えられ、それをフル動員すること
によって、さまざまなことが感じられる。
 においや音や、踏みしめる地面や、光に敏感になる。
 見るものの彩度は増して街が原色に見えたりもする。
 雨が降ればその雨粒の感触を楽しみたくなる。
 そしてなによりも肌をすり抜けるわずかな風が大好きになる。
 たとえばサイゴン川を渡る早朝の風、
メコンデルタクルージングのまどろみを誘う風。
 ニャチャンの日中の凪が終わる瞬間の風。
 ダラットの高原をぬける乾燥した風。
 ハロン湾のすこし生臭い風。
 六月のハノイの脂汗をしぼりだす、無風という湿度の飽和した風。
 五感が敏感になると、脳はすこし弛緩する。
ベトナムにいると物欲が抑えられる。平和な暮らしに憧れる。
誰と会っても楽しくなる。
 こずるいシクロのドライバーや、最近問題
の悪質なスリの連中でさえ笑っているので善良に見えたりしてしまう。
 あのアメリカと戦った力を彼等はどこにかくしているのだろう。
 きっと今ではたっぷり食べられる野菜中心のベトナムの食事が、
人々の心を穏やかにするのだろうか。
 たしかにアオザイの女性は皆文句なく美しい。
 彼等のベトナム語はとても優雅に聞こえる。
 かつての日本も、こんなふうにゆっくりと時間が流れていたのだろうか。
 だから一度ベトナムを訪れると皆とりこになってしまう。   



9月26日 夜になるとすっかり秋めいてきた。
先日訪れていた、ウラジオストクの日本語ガイドのアレクシー君から、
この数日ですっかり肌寒くなったとメールがあった。東京は日中はまだまだ暑く、
冷房が欠かせないけれど、ウラジオストクは短い秋から、突然冬になるらしい。
11月を過ぎると、雪は少ないが、氷点下10度から20度にもなるという。
ウラジオストクから帰ってからは、いろいろ忙しく、
それに撮った写真の整理にも時間がかかり、なかなかホームページ上で
紹介できない。しかし今月中に第一報として、紹介するつもりだ。
それに、雑誌などで発表したその後、新たに独立したホームページを
作ってみようと思う。
お楽しみに。

9月17日 

昨日、ウラジオストクから帰ってきた。印象は想像以上の興味ふかい街だった。ショックだったともいえる。詳しい報告は、写真を交えてそのうち報告するが、一番の驚きは、東京から車で3時間半飛ばして、新潟までゆき、そこからウラジオストク航空で、たったの一時間半。そこは、いわゆるアジアではなく、西洋文化圏、正確には東欧文化圏の極東の国が存在していることだ。一時間半というと、国内線の感覚だ。たったそれだけで、まったく異文化の白人国家を体験できるなんて、ヨーロッパやアメリカ大陸に住む人間にとってそれは、ごく普通なことだろうが、アジアの最果ての日本からも、こんなに近くに異文化を体験できる場があることを知り僕は嬉しくなってしまった。
しかも、ウラジオストクはまぎれもなく大都会だった。
街の規模は名古屋ぐらいだろうか、
ソ連が崩壊する以前は街はよく整備され、海岸には
日本でも今はやりのボード・ウォーク?っていうなのかな、
海岸に板張りの遊歩道がある。
トロリーバス(電気で走るバス)が走り、
市電が走り、ケーブルカーがあったりと、
街の地形的にいえば、アップダウンがあってサンフランシスコのようだ
かつては、かなり社会資本が充実していたようだ。
しかしペレストロイカで街は荒れ放題になってしまい、現在は
徐々に回復中というところだ。
人口は80万人と少ないが、
ヨーロッパの街のように街全体が居住地のようで、とても活気に溢れている。
夏の気候は、北海道とも違う、暑いけれど涼しい、(20度から27度、冬は-10度から-20度)
乾燥していて不思議な空気感だ。
夏のあいだ、女性たちは美しい足を見せびらかすように、街じゅう
ミニスカートのオンパレードだ。誇張ではなく、皆足が長く美しい。
9月だと、午前7時半ごろ夜があけ、暗くなるのは午後9時だ。
(夏のあいだ日本とは一時間の時差と夏時間の合計2時間の時差がある)
真夏だったらもっと日が長い。
まだ若い女性が旅するにはいろいろ整っていないのでお薦めできないが、
(はっきりいってトイレ事情が悪い)
数年後、5年ぐらいたったら、日本人にとって、素晴しい
避暑地として、大観光スポットになると思う。
食事はおいしい。ホテルも奇麗なのがある。 
海も日本海とは思えないぐらい、明るく美しい。
クラブもある。お洒落な子たちもいる。



9月8日  明日9日の朝から、ロシアのウラジオストクに行く。8/22にも書いたが、
カメラ雑誌と某週刊誌のドキュメンタリーだ。日本に一番近いヨーロッパ。
いったいどんな風景で、どんな風がながれているのだろうか。
8日間のほんの短い旅だけれど、帰ったらどんな場所だったか報告します。


9月2日 ロケでハワイに行ってきた。天気は最高、オフにはブギボートまでやった。
ハワイに行くたびに思うことだけれど、ここの気候は、本当に世界で一番きもちがいい。
この土地の晴れた日の、木陰を抜ける何ともさわやかな風は、他に比べるものがない。
1973年に初めて行ったときから、もう数え切れないぐらい訪れているので、
今さらハワイが好きだと普段は言わないけれど、
実際撮影するなら未知の場所に行くことが僕は好きなので、
自分からロケ先をハワイに決めることは殆どない。
ただ日本のカメラマンにとって、ハワイはオープンスタジオみたいなものだ。
日本にいるときと、何ら変わらないやりかた、生活、
いやそれ以上にずっと効率的に撮影できるからだ。
そして根本的に違う、光と風土、豊かな自然。
特に新人タレントの撮影の場合だったら、ハワイロケはステイタスだ。
出版社やタレント事務所の力の入れかたが違うというものだ。
今回は時間に余裕があったので、ワイキキの海岸をカメラを持ってぶらぶらと歩いた。
なんだか砂浜が以前より狭くなった印象だ。ワイキキ海岸は良く知られているように
人工の砂浜だ。北のサンセットビーチの白い砂が運びこまれている。今では
日本人観光客に占領されているが、僕が初めて訪れた1973年は
まだ日本人観光客は少なかった。そのとき僕が撮った写真を紹介する。
この写真は、僕がまだアシスタント時代にオフの時に撮った写真だ。
最初の写真展に発表した。タイトルは
「Three old graceful tourist--Waikiki,Hawaii,January 1973」
こんな閑散としたワイキキビーチは今では想像できない。
Canon F-1 24mm f2.8 TRI-X



8月23日 7月28日に僕がここで紹介した、ベトナム映画「ナイフ」などが紹介されたホームページが公開されました。どうぞごらんください。http://www.asia-movie.com/




8月22日 夏休みやら、ロケやらで更新する時間がなかった。それに25日からはHAWAIIに
ロケなので、また一週間以上更新できない。
9月に入ってから一週間、ロシアのウラジオストクへ行ってみようと思っている。
以前から興味があった土地だ。ソ連時代は軍港だったため隔離されていた都市だ。
最近、ウラジオストク出身の、日本に留学していた女性を友人から紹介してもらい、
彼女の弟がそこで通訳とコーディネターをしていると聞き、
さっそく行くことにした。
そこで撮影した写真をアサヒカメラの12月号の表紙と
口絵で発表するつもりだ。その他ある週刊誌にも発表の予定だ。
なぜウラジオストクかというと、新潟から飛行機で一時間半の隣国、
土地はアジアかもしれないが、ヨーロッパ文化圏のはしっこ、
言い替えれば日本から一番近い西洋文化圏のその土地を、
僕は何も知らない。だからこそ是非見たいと思ったのだ。
たまたま今日の夜、BSで「シベリア鉄道1万キロの旅」という
作家の村山由佳が旅する番組をやっていた。僕にとってタイムリーな番組だった。





8月12日 本日より、このサイトでも紹介している、TWILIGT TWIST
作品を集めた、コーナーをアップロードします。どうぞごらんください。

8月10日
拙著「サイゴンの昼下がり」のなかで取り上げた戦争写真家一ノ瀬泰造氏は、僕の大学時代、同じサークルの一つ先輩だ。かつて僕が写真を始めたころ撮影した、一ノ瀬氏の学生時代の写真を、彼の両親に贈るため、古いネガを捜し、プリントした。一ノ瀬泰造がカンボジアのアンコールワットに消えて26年。もうそんなになってしまうんだと思いながらも、彼が生きた26年間の歴史と同じだけ時間が過ぎ去ったことは、感慨ぶかい。書簡集と写真で綴られた1978年に発表された「地雷を踏んだらサヨウナラ」が、浅野忠信主演で、2000年の正月映画として公開される。今の時代に、一ノ瀬泰造の生き方がどのように受け入れられるのか興味がある。

戦争写真家一ノ瀬泰造のサイトを作りました。1999年12月20日どうぞそちらをご覧ください。




8月7日
暑い日が続く。しかも夏とは思えないような、澄んだ空が広がっている。
快適か不快かは別にして、カメラマンとしては日本の空がいつもこうだったら良いのにと思う。
実際この間に都内で撮影したフィルムの発色はまるでハワイのようだった。
写真家にとって光は決定的な要素だ。
日本には四季があってさまざまな光と出会える。しかしなんでもあるようでいて、日本では
得られない光も実は多い。あったとしてもごく短い時間。たとえば最近の東京の
光は、たまたまであり、年に何回もあることではない。計算できる光ではない。
日本ではまったくありえない光は、
砂漠のような乾燥した土地の澄んだ光だ。
経験的な感想だが、湿度とフィルムの
発色には関係があると思う。
それと白夜のような光も日本では味わえない。
まだいろいろあるけれど、日本人は何事にも敏感だと自負しているようだが、
それぞれの文化には鈍感な部分と敏感な洗練された部分がある。
日本人は微妙な光には関心があっても、ダイナミックな光を知らない。
それは日本文化全てに言えることかも知れないが。
光についてもう一つの問題は、
緯度に関してだ。
日本から南の光を求めてロケにいく場合、ハワイかグアム、サイパン、バリが多い。
その島のどこも赤道に近い。たしかに素晴しい光かも知れないが、一つ問題がある。
日中は太陽が真上にあって、人物撮影をすると顔に影ができてどうにも美しく撮ることはできない。
この光の状態でレフ板を当てれば不自然な写真になる。
背景も全てが明るく照らされてメリハリがない。
結局人物撮影の場合、樹木の下などの日陰や、家の軒先や中で撮影することになる。
午後の斜光の時間になると、カラーフィルムでは色が赤くなってしまう。
当然といえば当然だ。赤みを抑えたければ、ブルーのフィルターで補正することになる。
ところが、かつて、僕が初めてヨーロッパに行ったとき、それも彼等の南国エーゲ海に
で撮影したときのことだ、日中の強烈な光が美しい斜光だったことに驚いた。
日中でも充分順光で撮影できた。季節は10月だ。その光は鮮烈だった。
僕はこのときばかりはヨーロッパのカメラマンに嫉妬した。
それと6月のフィンランドに行ったとき、
夜9時過ぎても、夕方の斜光が永遠と続く。僕は日本の日没の撮影のように慌ただしく撮っていたが、
一時間たっても、その光はほとんど変わらなかった。
日本人は日々微妙に変化する自然の、色彩や、そして気温や、食べ物に四季を感じるかもしれないが、
ヨーロッパ人は、そればかりか夏と冬のあまりに違う時間にも意味を感じているに違いない。
午後10時すぎなければ真っ暗にはならない季節があることは、日本では想像しずらい。
それにひきかえ、冬のパリは午前9時にあけ、午後3時は暗くなりはじめる。
冬は部屋にこもり勉強して、夏の長い昼間に外で遊ぶ。
そんな文化がヨーロッパ文明を創造したのだろうか。
童話シンデレラの12時の時報で魔法が解けてる話で、
まともな若い娘が夜中の12時までパーティに参加できるなんて日本じゃ考えられないだろう。
夜中の12時は、日本では草木も眠る丑三つ時(正確には午前2時から2時半だけれど、言葉のあやということで)。
でも夏のヨーロッパだったら、12時は夜になったばかり
ほんの宵の口、とても自然なことなのだろう。


7月28日 

「居場所のないバレリーナ」

「ナイフ」1995年ベトナム作品/スタンダード/35mm/カラー/90min/
ベトナム映画協会副会長であり、ベトナムの若手映画監督レ・ホアン監督の出世作。第11回ベトナム映画際(1996年)審査員奨励賞を受賞。日本では、東京国際映画祭と同時期に開催されるアジアフィルムフェスティバルに上映されている。(ベトナム映画上映実行委員会事務局TEXTより)
(写真はレ・ホアン監督 1998.6 HCMC)
僕はこの映画を公開前にホーチミン市の、とある試写室で見た。
それは、1995年の夏、週刊文春のグラビア、原色美女図鑑でベトナムを取り上げたとき、女優でありバレリーナの、ミ・ズエンさんを取材したからだ。彼女はそのとき「最近映画を撮ったばかりだ」といった。内容に問題があり、上映を延期されているとのことだった。彼女は、その晩だったら、監督と一緒にその映画を見られるかもしれないと言った。

ミ・ズエンは10才の時、それは旧ソ連時代のことだ、ホーチミン市で開催された、世界的なバレリーナを多数輩出したレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)のワガノワ・バレー学校のオーディションに合格した。1000人のなかから選ばれたのは2人だった。彼女は8年間寄宿生活をしながらバレーを学んだ。その間ベトナムに戻ったのは、たった一度だけだった。卒業後ノボシビルスク劇場で踊りはじめる。しかしソ連が解体して、ロシアになり、状況は一変した。不安に思った家族の要請で、一時ベトナムに帰国。すぐに戻るつもりで往復切符を買った。
ところがロシアに戻るビザは二度と発行されることはなかった。
ホーチミン市には、満足にクラシックバレーを踊る場所はない。
失意の彼女は、いくつかの映画を経て、あるときレ・ホアン監督に出会う。
そこで彼女は映画に主演することになった。
このエピソードは、僕の拙書、今年1月に出版した「サイゴンの昼下がり」のなかの、「居場所のないバレリーナ」の章にくわしく書いた。昨年1998年の夏ベトナムに訪れたとき、僕は印象的だったミ・ズエンさんのその話を書こうと思い、再会した。監督のレ・ホアン氏も同席した。4年ぶりの彼は、ベトナムで最も有名な映画監督になっていた。彼は日本のある会社が、来年、彼の映画を日本で紹介する予定になっているといった。そして、僕のホームページを見た、この映画上映の関係者から、ある日メールが届いた。僕の本も読んでいるという。そんなきっかけで、僕は4年ぶりにこの映画の試写を見ることになった。
まず驚いたのは、ベトナムでの試写は画面がかなり暗く、どこか古くさいイメージがあったが、今回、日本で新たにプリントしたので、とても美しい現代の映画になっていたことだ。映写機の性能も違うのかもしれない。そして日本語字幕つきだったので、内容はずっと深く理解できた。1995年当時のこの映画が問題になったのは、映画のなかで革命軍(ベトコン)と政府軍(傀儡政権軍)の双方を、良くも、悪くも公平に表現したからだ。しかも共産主義を嫌うキリスト教の村が舞台だ。ヒロインの少女の母親はベトコンに強姦され死んでいる。こんなこと表現することは、きっとそれまでのベトナムでは考えられなかったろう。
以前観たときは、当然ベトナム語なので簡単なストーリー以外は、
理解できなかった。革命軍と政府軍のそれぞれのリーダーが二人とも人格者であるとは、わからなかった。そのかわり、音や、声や、映像に集中した。
ミ・ズエンの美しい声が印象的だったことを覚えている。
今回再度観て、僕の記憶の不確かなところが、それ以外にもいくつかあった。
それはラストシーンで、彼女と、革命軍の兵士、それに政府軍の兵士が
もつれる高い塔が、そして彼女が落下するその塔が、教会の鐘堂だったことだ。僕の記憶ではそこのところが不鮮明だった。記憶に残っていたのは、掛けられた梯子がゆらゆら揺れる竹の梯子だったことだ。なぜ彼女がその塔に登ったか、記憶がなかった。今回観てはじめて理解できた。



この映画は、株式会社グループ現代が事務局となり、来年に公開される予定だ。興味のあるかたは、phone.03-3341-2863fax03-3341-2874 (株式会社グループ現代)で、これからの予定などお尋ねください。この「ナイフ」の他、同監督の「サイゴンからの旅人」と、グエン・トゥオン・フォン監督の「ロイテ-誓い-」も同時に公開される予定だ。「ナイフ」などを紹介した、ベトナム映画のホームページがあります。リンクしてますので、どうぞご覧ください。
http://www.asia-movie.com/

7月23日

週刊ポスト誌で、水着の新人タレントを8人を3日間に渡って撮影した。
そのなかの
眞鍋かおり(19)が印象的だった。
伸びやかなスタイル。シャープな頭脳。愛媛県海上市出身、現在横浜国大一年生。
165-84-55-80
東京にでてきて、一番違うことは、やたらに歩くようになったことだという。
田舎ではどこに行くのも自転車だ。中国のように街に自転車が溢れているらしい。


7月21日 お知らせ

及川光博


講談社FRaUの7/27日号の表紙となかのグラビアで、及川光博氏、ミッチーを撮影してます。 CD欲望図鑑のジャケット写真にもなっています。FRaU誌上の写真もCDの写真も、背景の合成以外、T・T(TWILIGTTWIST)で撮影してます。


7月19日
ことし出版した「サイゴンの昼下がり」のなかで、ロバート・キャパの最期の土地を訪ねたことを書いた。彼が死ぬ間際に撮った写真に、彼の死んだ場所が絶対に写っていると、僕は考えたからだ。しかしさまざまな事情で確定するに至らなかった。ロバート・キャパの最期の写真に似た場所は発見したが、あくまで少ない資料からの推量だ。この件に関しては「サイゴンの昼下がり」新潮社の「一ノ瀬泰造とロバート・キャパ」の章でくわしく書いてある。その写真は下記をクリックすると見ることができます。ロバート・キャパの写真もリンクしているので参照してください。ロバート・キャパ最後の土地
僕は再度準備をしてその土地を訪れようと思っている。それには、キャパのヴェトナムでの最期のコンタクトプリントを見れば、足取りがわかる。今はキャパの弟のコーネル・キャパかICPが管理しているらしい。



僕の大学時代の友人のS氏、もとPPS通信社に勤めていて、1984年のロバート・キャパの展覧会に関わっていた。先日彼からもらった情報を引用します。




1984年6月銀座松屋での写真展「ロバート・キャパ展 戦争と平和」は、企画構成を その最初から手がけた、思い入れのある展覧会です。展示作品でも示しましたが、また 展覧会図録にも掲載していますが、それまで構成上決まっていた作品に加え、モノクロの 最後の作品(インドシナ 1954年)20点と最後となったカラー16点をそのとき初めて公開しました。モノクロのコンタクトプリントはそのものを見ていませんが、この20点が 最後の写真の直前を含めたほぼすべてと思われ、また、カラーの16点は最初の1枚だけは 日本で撮影されていますが、最後の写真を含めた直前の写真の全てです。 日本で世界に先駆け初公開したわけですが、厳密にはそれ以前では、そのうちの カラー1点のみが当時「CAMERA」誌に発表されたものでした。 カラーはコダクロームで1点以外はその当時現像したままの状態で紙のマウントに続き番号が 刻印されていました。制作に使用後、オリジナルは東京展終了後コーネルに返却しています。 展示した最後のカメラも。(後、そのカメラ=Nikonは富士美術館に寄託されています) 展示写真のキャプションはアナ・ワイナンドによるものだったと思います。

7月16日
先日、K-1戦士、ブラジル人のフランシスコ・フィリオを、
週刊ポスト「PEPOLE」の頁のために撮影した。(掲載号はまだ未定たぶん9月か10月)
ことしの11月に、極真空手世界大会が開かれるそうだ。そのためK-1グランプリは参加しない。
今まで極真空手世界大会で、外国人は一度も優勝をしていない。
彼が優勝候補の一人だが、日本側は死守するつもりだ。
いろいろな理由で外国人が、優勝するのは困難らしい。
それでも今一番、強いのは彼なのだから、がんばってほしい。
フィリオは今年、その大会に優勝してもしなくても、
空手界からは引退するつもりらしい。
来年はK-1に専念するといっていた。
昨年、K-1 GRANDPRIX'98
では、マイク・ベルナルドに人生初めてのノックアウト負けをした。
空手家としては超一流でも、キックボクサーとしてはまだまだ未熟なのかもしれない。
特にボクシングに関しては、技術を充分に習得する必要があるという。
敗れたときは、悔しかったらしいが、今は少しも悔しくないという。
リベンジを誓ってK-1に本格的に乗り込むのだろう。
なんて、格闘技ファンの私でした。