1999年9月

東京から関越高速自動車道、北陸高速自動車道と乗り継ぐこと約3時間半、

真新しい新潟空港から、今にも分解しそうなおんぼろジェット機の旅をほんの少し我慢すると、

そこはアジアでありながら西洋文化圏の都市ウラジオストクだ。

ウラジオストクは1992年まで、旧ソ連太平洋艦隊の最前線基地として、

外国人はいっさい立ち入ることができなかった。そのためわれわれ日本人にとっては、

近くて遠い国というより存在すら忘れさられた未知の街だ。

ウラジオストクの中心街にある、韓国資本のHYUNDAI HOTELの客室から望む朝の風景。

時間はすでに、午後7時半を回っているのに、陽は昇りはじめたばかりだ。

日本との時差は1時間、訪れた9月は夏時間だったので2時間の時差がある。

緯度的には北海道の宗谷岬と同じぐらいだ。ちなみに日没はこの季節は午後9時ごろと遅い。

この時期、気候は日本とさほどかわらない。夏は25,6度と過ごしやすい。

冬はマイナス10度から20度にもなるという。

ウラジオストクは極東のサンフランシスコと呼ばれるほど起伏にとんだ美しい街だ。

金角湾(GOLDEN HORN)は自然の良港だ。

下の写真はフニクリョールとうケーブルカーの上にある展望台から一望したウラジオストクの風景だ。

街には、このような煉瓦作りの建物が多い。歴史的には150年ぐらい前に街となった。

かつては中国領だったが、帝政ロシアのシベリア開発にともない極東の拠点として発展した。

開国まもない日本との往来も盛んだった。

下の写真はフニクリョールの上部駅。ケーブルカーはほんの数分の乗車時間だ。

高低差も100メートルぐらいしかない、山の上には大学があるくらいなので、

ウラジオストクを展望する観光目的に作られたのだろうか。

フニクリョールの展望台と金角湾をはさんだ、対岸のチュルキン岬側から観た景色。

上の写真の対岸の右端のビルが下の写真だ。このようなアパートメントビルディングが

標準的なウラジオストクの建物だ。一つ一つの部屋は日本の団地の1LDKぐらいと狭い。

このような中層アパートメントビルディングは、かつてソ連時代、

「5ケ年計画」のもと西暦2000年を目指して、

国民一所帯に一件もてるようにとの政策でつくられた。

ソ連は解体したが、この15年ぐらいでウラジオストクの街の風景は一変した。