ロバート・キャパ地雷を踏むまでの足取り VOL.2 1954年5月1日〜5月25日 インドシナ半島 ●5月1日(土) メーデーの取材(カメラ毎日、毎日新聞、伝記) 毎日新聞は、5月1日に発つ記事があるが、金沢の記録には、2日に発ったとある。 そのため、伝記では、5月2日に発ったことになっている。 それは謎なのだが、当時の飛行機の時刻表を見ると、5月1日に間違いはない。 しかも、新聞は記事だけではなく、離日の写真も残っている。 メーデーの撮影後、その日の夜の便でバンコクにたったことになる。 ★5月1日 ストクホルム行き、21時30分の SAS機で仏印に立つ。正確にはバンコクに行く 当時SAS東京出発は、週2便 水、土 発 到着は火、金 22:00 ●5月2日(日) バンコク着 オリエンタルホテル着 キャパは母親にホテルの便箋で手紙をだす。 ●5月3日(月) ビザの申請 ●5月4日(火) バンコク (この日サイゴンに入った可能性もある) ●5月5日(水) バンコク出発 リチャード・ウイーランの伝記では、キャパはビザ発給を待つため、 バンコクに1週間以上も滞在していることになる。 それは不自然だとずっと思っていた。サイゴンまでだったら簡単に入れるからだ。 ●5月6日(木) サイゴン マジェスティックホテル宿泊 ★日付は正確ではないが、すぐにキャパがサイゴンに入った証拠はある。 なぜならば、マジェスティクのホテルの矢印の部屋から、 サイゴン川を撮った写真があるからだ。 (残念ながら、まだマグナムの未発表の写真なので、紹介することはできない) マジェスティクホテル 何度か改修されているが、キャパの時代はこの状態だ。 2004年MHoteの同じアングルから撮った写真(alao Yokogi) Capaのコンタクトプリントには、50年前に撮った写真がある。 2004年 Alao Yokogi この場所からキャパが撮った写真がある。 ●5月7日(金) ディエンビエンフー陥落 サイゴンで知る。 ●5月8日(土) サイゴン ●5月9日(日) 軍用機でハノイへ ハノイメトロポールホテル ホテルの周囲で撮った写真がある。 ●5月10日(月) ハノイ ●5月11日(火) ライフの記者、ドン・ウイルソンとラオスのルアンプラバンに向かう。 ●5月13日(木) 市場を撮影 photo photo photo ラオスの兵士 ルアンブラバン ラオスの農民 (この服装はベトナムではない) ●5月14日(金) ディエン・ビエン・フーから最初の負傷者がヘリで運ばれる。 その写真を撮る。(毎日新聞) photo ●5月15日(土) ●5月16日(日) ●5月17日(月) ハノイに戻る ハノイ・メトロポールホテル ●5月18日(火) コーニー将軍と懇意になる。 ●5月19日(水) ●5月20日(木) ●5月21日(金) ハノイ南東45マイルの町、ナムディンに日帰り取材 コートンカイン工場の前の墓地で撮影。photo photo photo photo 兵士の背後に見えているのが、コートンカインヘリポート 現在はアパートになっているが、このゲートは昔のままだという。 右側がフランス人墓地、左側がベトナム兵墓地。キャパが撮ったのは左側だろう。 ハノイからナムディンまで、キャパはモランMS−500機に搭乗し、撮影した写真が残っている。 下の写真は同機。ディエンビエンフー陥落後の1955年の写真だ。 既に米国のマークがついている。場所はベトナムのニャチャン飛行場だ。 ●5月22日(土) ハノイ ●5月23日(日)★ ハノイの取材 音楽堂 カソリックの少年、アオザイの少女を撮る。日曜日のイベントだ。 メトロポールホテルのすぐ近くだ。Photo photo photo ●5月24日(月) 朝、モラン500偵察機で出発。ナムディン 夕方フーリーにヘリで行く。Photo Photo photo photo 荒れ果てた荒野のなかにぽつんと教会が建っている。 現在は市街地され、キャパが撮った場所からは教会は見えない。 キャパの写真にはこの教会が写っている。光は午後でだいぶ光は斜めだった。 たぶん3時過ぎだろう。(ここのキャパの写真はすでに発表されている) 今は、廃墟になっている。 モダンホテル泊
ホテルの近くの船着場で撮影する。 キャパがこの場所で撮った写真は、太陽の光がかなり斜めだ。 40キロ離れている二つの場所を同じ日に撮るには、フーリー、ナムディン間は、ヘリか飛行機の移動だったろう。 VOL.3 ●5月25日(火) NEXT VOL.3 CAPA最期の日に行く ロバート・キャパ最期の日 「水牛作戦」 |