写真解説 掲載写真の全キャンプション

*表紙H・C・M・C(ホーチミン市・旧サイゴン市)の中心部。コンチネンタルホテル裏、レタイントン通りを、颯爽と横断するアオザイ姿の女性。僕はカメラに200ミリの望遠レンズをつけて後ろ姿を追った。追いかける僕のファインダー越しの視線から、彼女は路地を曲がると、まるで白日夢だったかのように忽然と消えてしまった。僕が初めてサイゴンを訪れた時だった。僕は日本に帰りそのフィルムを現像した。そこには肉眼で見た印象そのままの一コマが、まるで演出したかように写っていた。二回目にサイゴンを訪れた時、この写真を、このあたりで仕事する人たちに見せたところ、誰も知らないし見たこともないと答えが返ってきた。彼女は、僕がヴェトナムで出会った一番印象的なアオザイの女性だ。ただこのアオザイは、生地や柄や形が、普通のアオザイをかなりアレンジしているという。いったいどんな生活を送っている女性だろうか。僕は彼女の日常を想像した。 
*4〜11p H・C・M・C。チョロン地区。午前6時30分。賑わう朝のビンタイ市場前広場。1778年中国の、西山党の乱のおり広東系の商人が大挙移住した。チョロンとはヴェトナム語で大市場の意味。フランス植民地時代にも繁栄を続けたが、1975年の解放と、社会主義化によって衰退。しかし近年、開放政策により活気を取り戻した。チョロンと言えば、映画「愛人/ラマン」の退廃した街を思い浮かべるが、今はそんな面影はなく活気にあふれた街だ。
*12p H・C・M・C。センチュリーホテルの最上階から見下ろすサイゴンの秋葉原、電気街。
*13p H・C・M・C。センチュリーホテルの最上階からグエンフエ通りを見下ろす。
*28.29p ミトー。ホーチミン市から国道一号線を南西に、約1時間半。メコンデルタの入り口の町。
*33.31p ミトーのフェリー埠頭に到着した乗客は、接岸するやいなや飛び降りバス乗り場めざして一斉に駆け出す。
*32.33p キム・チー(23)。女優。おっとりとした女性だった。ミトーフェリー乗り場にて。
*34.35p 足漕ぎボート。サイゴン川。足で漕げば手は自由だ。 
*36.37p 大根船、この他スイカ船、白菜船と何でもある。メコンデルタ、カントー水上市場。
*38.39p 渡し船、カントーの朝。インターナショナルホテルの最上階より 
*40.41p ミトー。自転車で桟橋を駆け抜けるアオザイ姿の女学生。 
*42p 天井の高い、サイゴン・マジェステックホテルのスイートルームから望む午後のサイゴン川。コロニー様式のこのホテルは、多くの有名人、作家、ジャーナリストが宿泊した。サイゴンで宿泊するなら絶対にこのホテルの川側の部屋。特にスイートルームは格別。
*43p マジェスティクホテルの最上階は屋根のあるテラスバーになっていて、夕涼みが爽快だ。そこから夕方のサイゴン川を臨む。 
*44.45p コンチネンタルホテルより、市民劇場前広場を臨む。ここにはおいしいイタリアンレストランがあった。ペペロンチーノが美味だった。残念ながら今はない。駐車しているのは、仏領インドシナ時代の高級車、シトロエン・トラクシヨン・アバン。まだかなりの数が走っている。 
*46.47p 工事中のビンタイン区ハンサイン交差点付近。今ではすっかり整備されている。
*48.49p H・C・M・C。大学生寮。男子も女子も同じビルに生活している。男子はエッチなビデオに夢中らしい。
*50.51p H・C・M・C。チョロン地区。このあたりには花嫁衣裳屋がずらりと並んでいる。
*52.53p 雨の、レックスホテル前。
*54p H・C・M・C。ガラス運び。ヴェトナム人は、シクロや自転車、バイクで、なんでも運ぶ。
*55p H・C・M・C。女性会館でこの日、午後六時から誕生日パーティだ。ところが直前にスコールになってしまった。招待客は誰もやってこない。いつ始まるかもわからず、ぼんやりとたたずむ男子事務員。
*56.57p H・C・M・C。チョロン地区、バスターミナル。チョロン地区のなかでも特に活気のあるこの一角。地方から次々とバスがやってきては、荷物や人が吐き出される。そしてふたたび、荷物満載で出発だ。
*73.74p 10月、昼下がりのニャチャン海岸。この時間海岸にあまり人影はない。
*74.75p 2月の午後のニャチャン海岸。この日は風が強く波が高かった。
*76.77p 4月のニャチャン海岸。風がなく海は鏡のように穏やかだった。
*78.79p 4月のニャチャン海岸。姉妹。夕方になると風が強くなった。
*80.81p 6月、早朝のニャチャン海岸。昼間と違って、朝夕はまるで真夏の湘南海岸のように海水浴客でビーチは一杯だ。そういえばヴェトナムを訪れるたびに、海岸で遊ぶヴェトナム人が増えたような気がする。
*82.83p 4月のニャチャン海岸。工事中のビルは、すでに完成している、シンガポール資本の、ニャチャン・ロッジホテル。
*84.85p 6月の夕方。ゲイの少年たち。夜パーティがあるからと盛んにさそってきた。「おかま」という言葉を知っていて連発した。
*86.87p 六月の朝のニャチャン海岸。ヴェトナム人は日本人のように、水浴びが好きだ。朝暗いうちから、夕方とっぷりと暮れるまで、海岸は人でいっぱいだ。まだヴェトナム女性の水着姿は少数派。パジャマのような服そのままで、水遊びに興じる。
*88.89p 早朝。ヴェトナム人はサッカー好きだ。空き地があれば、まだ暗いうちからどこででもサッカーをする。
*90.91p 完成した、ニャチャン・ロッジホテルから臨む、ニャチャン海岸。このホテルによってニャチャンの景観は一変した。それが良いか悪いかは別にして、このホテルからの景色は圧巻だ。
*92.93p 早朝、ニャチャン・ロッジホテルから臨む、ニャチャン飛行場方向。下に見える、黄色い建物が、グランドホテル。今はまだボロボロのホテルだが、そのうち改装されると素晴しいホテルになるはずだ。
*94.95p ニャチャン港からボートで南東に向かうと、佐世保の、五島列島のように島が点在している。カムラン湾方面にいく途中。内湾なので海面は穏やかだ。
*96.97p ニャチャンビーチ南端。バオダイ帝の別荘を改造したホテルバオダイビラズ。海岸に面したクラシックなホテル。ホテルのプライベートな岩場で結婚式の記念撮影が行われていた。
*98.99p ダナンから車でハイバン峠を越えてフエに向かう途中、展望が開けた場所から鳴き砂で有名なランコー村の海岸が臨める。
*100.101p ダナン。ヴェトナム第三の都市。ヴェトナム戦争中、アメリカ軍最大の基地があった。そのはずれにあるノンヌォックビーチの朝日を浴びて。
*102.103p ニャチャンの海岸。僧侶とその弟子。
*104.105p ファンラン。このあたりはサボテンが生える半砂漠地帯。小高い瓦礫の山にそびえる、ポー・クラン・ガライ。14世紀ごろのチャンパ王国の遺跡。チャンパはかつてヴェトナム中部に栄えた、ヒンズー教の海洋民族だ。インドネシア、バリ島の建築様式と驚くほど似ている。
*106.107p ファンティエットの砂丘。ホーチミン市から国道一号線で北東に250キロ。ここはフーコック島とならぶニョクマムの本場。ここの砂はパウダーのようにきめが細かく目の覚めるようなオレンジ色をしている。
*108.109p 夕方の国道1号腺。フエ郊外
*110.111p ミトーへ向かう国道1号線。満員の小型バス。人間も積み荷も一体だ。
*112.113p 国道1号線。ブンタウからホーチミンへの帰り道。
*114.115p フエからクアンチにいく途中。荷物満載のこのトラックはドッドッドとエンジンを回転させ、ほとんど自転車ぐらいの速度で走っている。北の方に行くと、中国製農耕エンジンのもっと遅いトラックが走っている。
*116.117p 国道1号線を疾走するバス。かなりの速度で突っ走る。スリル満点。
*118p 行き先表示がそのままの、日本製のバス。日本の中古車そのままが走っているわけではない。ハンドルの位置は当然左ハンドルに改造され、その他ドアの位置、座席と、細部を見ると全く原形をとどめていない。しかし、「非常口」とか、「ワンマンカー」とかいった、日本語の表示はそのまま、再度取り付けてある。どうやら、日本人が意味もなく英語のTシャツを着るのと、同じ感覚らしい。
*119p バスの助手は大忙しだ。客の荷物を屋根に乗せたり、まるで船でも乗っているように、走るバスの屋根の荷物を整理したりもする。そして、体を乗り出して、追い抜きどきには、前方の車や対向車に対して合図を送る。若い男の仕事としては、ちょっとカッコイイ。
*120.121p ダラット。地方に行くと、こんなふうな小さなバスがよく走っている。仏領インドシナ時代のルノーのマイクロバス。
*122.123p ハイバン峠の下り坂で側溝に落ちたバス。旧式のバスはブレーキが利かない。満員状態だと下りはかなり危険だ。このバスのメーカーはDODGEとあるが、これはたぶん飾りだろう。
*124.125 ハイバン峠。ダナンとフエの間にある、海抜600メートルの海に張り出す峠。この峠を境に、ヴェトナムは南北に二つに分かれている。気候も人の気質も違う。
*142.143p ミ・ウェン(21)。モデル。H・M・C郊外の水辺のレストランにて。
*144.145p 売子たちに囲まれるチャン・ティ・ヴァン・グォック(23)。モデル。現在ハノイ総合大学四年生。セリーヌ・ディオンが好きだと言った。ホアンキエム湖上、玉山祠の入り口。
*146.147p グエン・ミン・トゥー(19)。箱入り娘だろうか、ステージパパ、ママ、の両親がついてきた。彼女は古典音楽の踊手。4歳のときに父から手ほどきを受けて以来、高級クラブやレストランの舞台にたつ。現在は女優もしている。背景に見えるのは、解放前は名門女子高だったマリクレール高校。映画「愛人/ラマン」に登場する女子高もここがモデル。今は共学になっている。登下校時間には白いアオザイの女学生でいっぱいになる。
*148p ベトナム航空のスチュワーデスのピンクの制服。地上職員はブルーだ。
*149p マイ・トゥ・グェン(19)。女優。学生。彼女は現在ハノイ外務大学2年生。外務大学は外交官になるための大学。ヴェトナムで一番難しい大学だ。当然将来は外交官になりたいと言っていた。撮影後、ハノイの女性ファッションカメラマンと通訳氏との4人で日本食を食べた。彼女は果敢に挑戦して、刺身や納豆まで食べてしまった。1994年から十本のテレビドラマ、うち八本主演、他に映画の主演が四本。父親はドキュメンタリーフィルムのカメラマン、母の妹は舞台女優だ。才媛である。
*150.151.152.153p フエ。王宮前の広場で放課後を楽しむ女学生。フエはヴェトナム最後の王朝、グエン朝(1802〜1945)の古都。ここの王宮はベトナム戦争ですっかり荒れ果ててしまった。城壁には弾痕がありありと残されている。映画「インドシナ」を見ると、そのロケ中は、まださほどここは修復されていなかったようだ。今では、日本などの援助で殆ど修復されている。
*154.155p ホーチミン市内を、颯爽と自転車で通学する女学生。右手でアオザイの前布をつまみ、後ろ布はお尻に挟んでいる。中には全く気にしないで風に布を翻して乗る子もいる。
*156p上 ハ・キュ・アイン(20)。元ミスヴェトナム。祖父は外務省ナンバーツーであったハ・バン・ラウ。元軍人の彼はインドシナ戦争終結の際に、ジュネーブで停戦調印にも出席した政府要人。その孫娘がミスヴェトナムの栄光を引っ堤げ、売れっ子モデルとして活躍。日本の雑誌にも何度も登場している。身長171センチ。気ぐらいの高い、ちょっと生意気な女性。企業の株などを持っていて、年収は普通のヴェトナム人の約百倍。背後の路上理髪店は日本円で約50円。髭をそってもらっているのが、僕の友人の通訳氏。H・M・C。トンドゥクタン通り
*156p下 ジェン・フォン。ハノイで一番売れている女優。八九年のデビュー以来、映画の主演作は五十本以上。CFも現在流れているだけで十本あまり。それに70種類のカレンダーも飾っている。「仕事が忙しくて、ほとんど家にいないんです。いても、寝るだけなの」母親と妹、それに6ぴきの犬と一緒に暮す自宅には、自然光が差し込む美しい中庭、それを囲むようにリビングルームと、ベッドルームが3つある。一部屋は、彼女の衣裳部屋。この贅沢な自宅の他にも一軒家があるという。
*157p上 タイン・シアン(21)。モデル。1954年カトリック教とだった両親はサイゴンに移住した。彼女もカトリック系の学校を卒業。現在は専門学校でコンピュータと英語、中国語を勉強している。167センチ 87・62・90。ホーチミン市チョロン地区バスターミナル。
*157p下 タイン・マイン(21)。女優、モデル、ダンサー。中学高校の8年間ホーチミン音楽学校で舞踏を専攻。ヴェトナム舞踏コンテストで金賞を受賞した。ヴェトナム映画コンテストで最優秀女優賞を獲得。韓国の映画にも出演したことがある。H・M・C。ナンシー市場にて。
*158.159p ラン・ヴィ(19)。モデル。彼女は、ヴェトナムの軽井沢といえる、高原の街ダラットで生まれた。13歳のとき両親と別れ、ホーチミンに養女としてやってくる。「本当の両親と離れたことは寂しかったですけれど、ホーチミンで良い教育を受けさせてやろうという親心には感謝しています。実母とは1ヵ月前にもあったばかり。誕生日やお祭りの日には、プレゼントを持って里帰りするのです」。サイゴンの湘南海岸、ブンタウ、バックビーチにて。ヴェトナム人はまだあまり海岸で水着姿にならない。ましてやこのような超ビキニはと、僕のほうが心配したが、彼女は堂々と海岸を歩き回った。
*160p ファン・ラン(18)。94年の準ミスヴェトナム。外科医である中国人の父親と、人民委員会に勤務するヴェトナム人の母親との間に生まれたハーフ。父親が勤務しているのはベトちゃん、ドクちゃんの名前の由来となった、ベトドク病院。ドイツの援助で建てられた病院だ。彼女はハノイ初の私立大学、東方大学の1年生。法律を勉強している。卒業後は弁護士になりたいとか。ハノイ、イェンフ通り。ヴェトナムではミスコンが大流行だ。ミスヴェトナムに始まって、ハノイ美女フェスティバル、スポーツ・ファションコンテスト、北部ミス……女優や歌手のオーディションは枚挙にいとまがない。おまけに学校単位でもミスコンは開かれ、代表を選考するのは先生とか。それが市や県の決勝大会までつながっていく。今若者の人気はミュージックプログラム。歌と踊りとファッションショーが二時間の中で展開される。そのメインがファッションショーなのだ。
*161p フォン・ザン(20)。国立ハノイ外国語大学3年生。彼女の専攻はドイツ語。両親ともドイツに留学経験があり、留学先で知りあい、結婚。父親はホーチミン政治研究院の社会学センター理事長。母親はハノイ総合大学の化学の助教授だ。大学構内ドイツ語教室にて。
*162p ゴック・アイン(18)三年前ミス・ハノイに選ばれ、映画の世界へ。機械輸入業を営む両親と離れ、14歳の弟とホーチミンに住んでいる。今では超売れっ子モデルだ。ホーチミン市ビンタイン区ハンサイン交差点にて。
*163p タイン・シアン(21)。157p上と同じ。撮影していると大勢の野次馬に囲まれた。 
*164p タイン・ラム(26)。歌手。彼女は1994年ポップシンガーとして初めてソロコンサートを成功させた。場所はハノイ文化センター。1000人以上の観客が1週間満員になった。有名作曲家を父にもち、ヴェトナム語の発音が一番正しい歌手としても有名。ハノイの最先端スポット、ディスコ、クインビーで、彼女はアメリカンポップスを何曲もソウルフルに熱唱した。ハノイ郊外ド・アイン県マイルン煉瓦工場にて。
*165p ホン・ニュン(25)。ヴェトナムで一番有名な歌手。87年ハノイ歌手オーディションでグランプリ。以後ホーチミンに活動の拠点を移す。
*166.167p ミ・ズエン(23)。バレリーナ、女優。166pの背景は夜のレロイ通り。仏領インドシナ時代はカティナ通りと呼ばれていた。167pで彼女が立っている場所は、市民劇場。フランス植民地時代、シティオペラハウスと呼ばれていた。1944年に爆撃で大破。装飾を排して修復後、1955年からは南ベトナム共和国の国会議事堂として使用された。現在はフランス時代のような優美な姿に修復中。背景に見えるのは、グレアム・グリーで有名なコンチネンタルホテル。
*192.193p かつての国境近くの街クアンチ。1972年ここで壮絶な戦闘があった。ヴェトナム人の僕の友人もこの地で戦った。この近くに仏教徒が鎮魂したアメリカ人兵士の慰霊塔がある。純白の雪のように見えるのは、このあたり特産の石英の砂だ。ニャチャン近くのカムラン湾でも採れ日本に輸出されている。僕も撮影で数度使ったことがあった。ヴェトナムの砂だとは知らなかった。遠くの山は、カンボジアの国境の方角、中部山岳地帯。
*194.195p クアンチの米軍基地跡。1973年1月、一ノ瀬泰造もこの地を踏んだ。いまでは滑走路のわずかなコンクリートしか残っていない。本文では触れてないが、一ノ瀬泰造の父上、一ノ瀬清二氏は1996年、「一ノ瀬泰造 戦場に消えたカメラマン」を上梓した。その本は戦争写真家一ノ瀬泰造の決定版と言えるもので、学生時代の写真や、多くの戦場や庶民の写真、そして清二氏が、何度か出かけたヴェトナムやカンボジアで、息子が撮った場所と同位置で捉えた、氏自ら撮影した写真が載っている。それに一ノ瀬ゆかりの人達の追悼文とともに、以前出版した写真書簡集「地雷を踏んだらサヨウナラ」などが再構成されている。一ノ瀬の両親は、行方不明後も息子の生存を信じ、カンボジア政府に幾度も捜索の嘆願書を送り続けた。そして一ノ瀬泰造を村人が見たとの情報を得て、1982年、両親はTBSの取材に同行する。そしてアンコールワットの北東約10キロ、プラダックの荒涼とした草原の土に眠る息子の遺骨と再会することになる。取材によると、一ノ瀬泰造は1973年11月22日か23日、アンコールワット潜入後すぐにクメール・ルージュに捕まる。そしてプラダックに連行された。夜は足に鎖を繋がれたが、昼間は自由に村人の撮影をしたりしたらしい。その後、命よりも大切なカメラを取り上げられ、反抗的な態度を咎められ、11月28日に処刑された。死体の埋められた場所は、村人の多くが知っていて、両親はそこを堀りかえし、遺骨を収集した。清二氏が、泥にまみれた遺骨を近くの川で洗う姿の写真を僕は図書館で見て、思わず涙がポロポロと流れてしまった。その本を出版社に注文すると、まだ多く残っているとのこと。葦書房有限会社 福岡市中央区赤坂3・1・2 092-761-2895。¥3000+消費税
*196.197p 北ヴェトナム側からみた、1954年から1975年までの南北国境。17度線に沿ったベンハイ川が北と南を分断していた。かつてその周囲、幅10キロ、長さ50キロは非武装地帯になっていた。
*198.199p ホーチミン市、戦争犯罪博物館のジオラマ。米軍が残した、戦闘機などのあらゆる武器が展示されている。さしずめアメリカ軍、武器博物館だ。
*200.201p ホーチミン市、タンソンニュット空港。警察官とアオザイ姿のスチュワーデス。
*202.203p H・C・M・C。空から見た中産階級の新興住宅地。
*204.205p ハノイからハロン湾にいく途中。国道脇の農道。
*206p H・C・M・C。カメラを向けるとフリーズする少年。旧大統領官邸の中庭。
*207p H・C・M・C。ナンシー市場で。157p下の写真を撮影中じっとこちらを見ている少女。
*208〜211p かつての国境、17度線上、ベンハイ川の南側の袂に、1978年フエより移住して住み着いている漁師の家族。家はどう見ても掘っ建て小屋だ。電気が来るのかと聞くと、大切そうに扉を開けて、テレビを点けてくれた。おじいさんとおばあさん、そして夫婦。この狭い掘っ建て小屋のなかで子供を8人も作った。そのなかの1人は、奨学金をもらいフエの大学に行っているそうだ。たくさん子供を作れば、1人ぐらい優秀な子供が生まれる。将来を見越した投資みたいだなあと思った。
*212.213p カントー。喧嘩する少年たち。こんなふうな喧嘩、日本で見られなくなって久しい。
*214p H・C・M・C。
*215p フエ。朝の掃除をする水上生活者の幼女。ヴェトナムの子供はよく働く。
*216.217p ハノイ郊外。鴨売りの少女。
*218.219 ニャチャン、ホンチョン岬の北。若い労働者たち。ちょっと天気が悪いけど決して寒いわけじゃないのに、なぜか厚着の集団だった。お洒落なのかも知れない。
*220.221p サイゴンの湘南海岸と言える、ブンタウの街。昼寝する乞食の子。北から移住してくる乞食が多い。南は1年中暖かいのでこんな生活も可能だ。
*222.223p 生きたまま2匹の豚を籠に詰め込んで運ぶ。以前写真でみたことがあるが、生きたままロープで結わえて運んでいる写真を見たことがある。豚に限らず、アヒルや鶏も生きたまま荷台に結わえて運ぶ。
*224.225p ホーチミン市からミトーに向かう途中の、フランスパンを売る露店と放し飼いのあひる。フランスパンはどこで食べても、本物のフランスパンだ。
*226.227p ダナン ノンヌォック・シーサイド・リゾートのテラスでの朝食。この麺はフォー(ヴェトナムうどん)ではなく、イエローヌードルだ。ラーメンみたいで美味しい。このコンビネーションが、僕のお気に入りのヴェトナムの朝食だ。
*228.229p ダナンのチャイニーズレストランのメニューに、「東京ライス」と「アメリカライス」が載っていた。さっそく注文するとでてきたのがこれ。右が東京ライス、左がアメリカライス。
*230p 精進料理。フエ。レストラン「チン・ザー・ビエン」(Tinh Gia Vien) 20-3 Le Thanh Tourue phone.822243)見た目にも美しい王宮料理と、それにそっくりな精進料理を食べさせてくれる。ヴェトナムでも有名な最高に美味しいレストラン。開放的な一軒家でゆったりとした食事。要予約。フエに行ったら絶対に行くべし。
*231p上 ミトーのレストラン、チュンルオンの名物料理、魚の姿揚げ、「象の耳」美味。
*231p下 ハノイの人気ステーキレストラン「フエ」。フォアマ通りにある。
*232p上 H・M・C。べンタイン市場。さまざまな種類の米。べンタイン市場はホーチミン市最大の市場だ。
*232p下 ニャチャンの魚市場で、売れ残った魚と鶏。
*233p上 ハノイから70キロ南、タイビンの小さな食堂のケースに並べられた心臓。
*233p下 H・C・M・C。べンタイン市場。内臓屋。
*234.235p H・C・M・C。籠のなかの二十日鼠と蛇と、小鳥。
*236p上 サイゴンの洒落た酒場 Qバー。
*236p下 H・C・M・C。ナイトクラブ 客はここの女性たちと外でデートできる。
*237p上右左 ホンダガール、バイクに乗った娼婦。彼女らの多くは、美人局や泥棒だと言われている。
*237p下右左 街で見かけたポスター。
*238.239p ニャチャンの町で見かけた乞食犬。
*240p上 新聞売りの少年。ダナン駅構内に停車する旅客列車。
*240p下 H・C・M・C。寝ながら子守する少女。
*241p上 H・C・M・C。ヴェトナムの子供はいつでも勉強をしている。教育程度は高く、日本の受験戦争以上に過酷だ。
*241p下 H・C・M・C。金髪の浮浪児。
*242p ニャチャン。床屋。
*243p H・C・M・C。今日はミンちゃんの九歳の誕生日だ。ところがパーティ開始六時の予定の三十分まえから、雷をともなった猛烈なスコール。皆バイクなので時間になっても誰もやってこない。テーブルの椅子は全部で30脚程、料理の準備は万端だ。ミンちゃんは不安になっていると、お父さんの携帯電話に友達から電話がかかりほっとする。雨が止みパーティが始まったのは午後8時を過ぎていた。
*244p上 旧大統領官邸前の公園で記念撮影するアオザイ姿の集団。
*244p下 フエ。ヴェトナム人と結婚していた彼女は、離婚してこのフランス人と婚約した。来週二人でフランスに渡り結婚するそうだ。これからの彼女の運命はどんなだろうか。幸福を願う。
*245p上 カントー。新婚旅行のカップル。ほとんど彼女が指図していた。やさしい夫だった。
*245p下 結婚式。アオザイの姿の花嫁。ダナン。
*246p上 噛み煙草のようにビンローの実を噛むと、口の中は血で染まったように真っ赤になる。しかしこの老婆は、江戸時代の既婚女性のように歯が真っ黒だった。お歯黒の習慣があるようだ。ダナン近郊、五行山の物売りの老婆。五行山はかつてチャンパの聖地だった。今はヒンズー教の神々の他、中国の神々が祭られている。
*246p下 H・M・C。雨の夜のシクロ。
*247p 典型的な、バイクに乗る中年女性のファッション。ヴェトナム女性は日焼けが大敵だ。帽子にサングラス、マスクに手袋と完全防備だ。バイクや車の排気ガス対策でもある。
*248.249p 王宮を見学する、ヴェトナム人観光客。近年とみに豊かになったせいか、ヴェトナム人の国内観光が盛んになっている。1966年テトの攻防でフエ市内は壊滅的に破壊された。映画「フルメタル・ジャケット」でも描かれている。弾痕のすさまじかったこの王宮も、日本など外国の援助によって、ここ数年ですっかり復元された。
*250p フエ。ホテル・センチュリーリバーサイドから眺めるフォン川。かつてはロシア人観光客で賑わっていたフエ一番のこの豪華ホテルは、今ではすっかり質素なたたずまいだ。現在一番のホテルは、できたばかりの、モーリンホテルだ。
*251p 1994年10月初めてフエに来たとき、街は静まり返っていた。商店に物は少なく、ホーチミンからくらべると死んだ街のようだった。それが今回、久しぶりに来てその活気に驚いた。ヴェトナムは都市ばかりか地方も活気に溢れている。この数年、豊かになっていることは事実だ。朝の光に干す洗濯物。
*252p ホイアンの街。ここには16、7世紀頃、日本がまだ鎖国をする以前、日本人街があった。
*253p ホイアンの街の日本人街と中国人街を結ぶ、カウライヴィンエン橋(来遠橋)。1593年日本人の手によって作られたので、日本橋とも呼ばれている。
*254p ダラット。フランス人が避暑のために切り開いた高原の街。いわばヴェトナムの軽井沢。夏でも涼しく乾燥していてホーチミンからくると天国だ。
*255p ダラット。ソフィテル・ダラット・パレスはコロニアル様式の本格的な西洋建築だ。クラシックな客室は広く豪華で申し分ない。ここがヴェトナムであることをすっかり忘れてしまう。ヨーロッパの洒落たシャトーホテルのようだ。そこのフランスレストランの朝食時。
*256.257p ダラット市場のロータリー。高原の街の活気ある中心地。ここは野菜や果物の大産地だ。
*258.259p ダラット郊外。
*260.261p ダラット郊外。
*262.263p ハロン湾。海の桂林とよばれる石灰岩の奇岩の島々。ヴェトナム一の観光地。ハロン湾の観光ルートを、チャーターしたボートで行くと内湾があり、幼い少女三人組の洞窟ツアーの小船がやってきた。いたいけな少女たちだが、それまでしつこかった物乞いの少年たちより、その懸命な労働意欲にほだされて、乗ることにした。姉妹ではない、いとこ同士だという。身を屈めてやっとの洞窟を抜けると、島の裏側にでて、そこは小さな入江になっていた。二、三のことを質問したが、恥ずかしがって短い答えしか返ってこない。降りるとき、十分な報酬をあげると喜び、船が離れてもいつまでも手を振った。
*264.265p ハノイからハロン湾に行く途中。工事中の未舗装道路は雨で泥だらけだ。
*266.267p ハノイ空港から街までは、高速道路が続いている。コカコーラの看板が迎えてくれる。
*268.269p ハノイ。ホーチミン廟。ヴェトナム統一の父、ホーチミン主席がガラスケースのなかに安置されている。
*270p ハノイ。とっても洒落た、ザ・ヘリテージホテルの客室から見下ろすプール。雨なのに泳いでいる人がいた。
*271p ハノイ。溢れた水で遊ぶ少年。ハノイは漢字で書くと、「河内」だ。街の中心には池がある。大雨が降るとすぐに、氾濫して道路はいたるところ浸水する。僕は、ヴェトナムに行きたいと思ったとき、迷わずサイゴンを見たいと思った。サイゴンとヴェトナムは違うような気がしていた。しかしサイゴンの多くの人達は、ハノイはとても美しいと言う。ハノイは共産主義が色濃いようで、あまり気乗りがしなかったが、来てみると、本当にそこは美しい水の都だった。
*272.273p ハノイ。ホアンキエム湖。釣をする少年たち。
*274.275p ハノイ。洪水のメインストリート。
*276.277p ハノイ。喧嘩する中年女性。
*278.279p ハノイ。西湖のビルボード。
*280.281p ハノイ郊外ド・アイン県。火事だと思って近づいたら、煉瓦工場だった。
*282〜285p ハノイ郊外ド・アイン県ズックートゥ村。
*284.285p ハノイ郊外ド・アイン県ズックートゥ村。こうやって煉瓦を積み上げているのは、貯金のようなもの。新築したり、増改築は煉瓦を十分ためてから始める。
*288.289p マイ・フン(18)。受験生。父親は新聞記者、母親は工業大学の講師。兄と姉の三人兄弟だった。兄は10年前に亡くなった。ハノイ総合大学で生物学を専攻した兄は、中部山岳地帯ジャライコントゥムのジャングルで研究を続けていたが、ベトナム戦争当時アメリカ軍が投下した枯葉剤がまだ残っていて、それが原因で死んでしまった。彼女はこの春にハイスクールを卒業した。今は受験の真っ最中だった。ホーチミンでモデルを探しているとき、ハノイのファッション誌の表紙に彼女を見つけた。通訳氏のハノイの友人、女性ファッションカメラマンの秘蔵子、素顔はまだ幼さの残る少女だった。
*320.321p ナムディンのフェリー埠頭からみた、対岸のタイビン。この風景をキャパも見たのだろうか。
*322.323p タイビン側からみたナムディン。
*324.325p タイビンのフェリー埠頭から数キロ、タイビンの街までは一直線だ。この両サイドに水田が広がっている。
*326.327p ロバート・キャパが最後に撮影したモノクロ写真にそっくりな地形の場所。
*裏表紙 ヴェトナム料理は基本的に薄味が多い。好みによって、香辛料を加える。ヴェトナムレモン(似ているがライムではない)、唐辛子、塩、胡椒 ダナンのノンヌックビーチリゾートホテルにて。

SPECIAL THANKS(敬称略・順不同)

矢作俊彦、鈴木正文、浅田恒穂、神田憲行、船越博貴、根本 篤、松原 健、高橋みどり、白川正行、絆架利之、古庄 修、チュンさん、フンさん、青山達雄、堀井久美
二玄社「NAVI別冊OP 」、文芸春秋社「週刊文春」、角川書店「別冊野性時代」、朝日新聞社「アサヒカメラ」、ぶんか社「PENTHOUSE」、バウハウス、Canon

参考資料

キャパ その青春 その死 リチャード・ウィーラン 沢木耕太郎 訳 文藝春秋社
ロバート・キャパ写真集 沢木耕太郎 訳・解説 文藝春秋社
地雷を踏んだらさようなら 一ノ瀬泰造写真・書簡集 講談社
写真集・遥かなりわがアンコールワット 一ノ瀬泰造 一ノ瀬泰造写真集刊行委員会
一ノ瀬泰造 戦場に消えたカメラマン 一ノ瀬清二 葦書房有限会社
おとなしいアメリカ人 グレアム・グリーン 田中西二郎 訳 早川書房
ベトナム戦記 開高健 開高健全集 第一一巻 新潮社
ヴェトナム「豊かさ」への夜明け 坪井善明 岩波新書
ヴェトナムへ行こう 神田憲行 編 朝日新聞社
地球の歩き方 ベトナム ダイヤモンド社
個人旅行 ベトナム 昭文社
バリケードを吹き抜けた風 橋本克彦 朝日新聞社
HERITAGE VIETNAM AIRLINES INFLIGHT MAGAZINE NUMBER 30

装丁・アートディレクション

修田潤悟

デザイン

須藤美香