31 JAN.1995 Kobe Hyogo Japan

 1995年1月17日月曜日。ぼくはその日伊豆にいて地震のことは何も知らなかった。
 朝からテレビもラジオもスイッチをいれてなかったからだ。知った時にはすでに昼
をまわっていた。初めはさほどたいした被害とは思えなかった。
時間がたつにつれ想像を絶する被害となっていた。
 その週末小説家の矢作氏と連載していたNAVIの撮影の予定があったが、そんな場合
じゃないとの認識で神戸に取材に行こうと、急遽変更した。
 週刊ポストから取材費がでることになり、
クルマではどこまで入れるかわからなかっ
たので、アシスタントの分と3台マウンテンバイクを購入してジープチェロキーの屋
根に載せた。神戸に入れるのは緊急物資輸送のステッカーを役所からもらわなければ
ならなかった。僕は日本写真家協会に行って、
プレスのステッカーと腕章をもらった。
矢作氏は赤いヘルメットを三つそろえてご満悦だった。
 夜中12時に横浜を出発した。東名高速は普段よりも空いていて、屋根に載せた自転
車を心配しつつ僕は平均速度150キロでぶっとばした。どこから渋滞が始まるか心配
だった。ところが京都南で国道に下ろされても、どこも渋滞はなかった。なんどかの
検問もヘルメット姿、ジープの屋根には自転車三台、窓やボンネットにはプレスのス
テッカーといった重装備に、気後れしたのか「取材」というと、検問はどんどんパス
することができた。あっけないくらいだった。気がついたら朝の芦屋の街に着いてい
た。それまでは地震のつめあとはたいしたことがなかったが、突然家という家は醜く
歪んでいた。まずはテレビで見ていた崩れた高速道路にどうにかたどりついた。
 そこはすでに解体が始まる寸前だった。NHKの朝のニュースが中継をしていた。

32 JAN.1995 Kobe Hyogo Japan

 長田の街はほぼ鎮火していた。ところどころ煙がくすぶっていた。
燃えたホンダアコードが印象的だった。
4×5を2枚撮影したうちの一枚が、ホルダーの不具合で光線
漏れがあった。オレンジ色のムラはそのせいだ。
 ところで今回の撮影に僕は4×5カメラをなぜ選択したのだろう。
それはニュースとして第一報を撮影しに行くわけではなかったからだ。
僕は報道カメラマンとして神戸の地を踏んではいない。
僕は被災した神戸の街の風景を撮影しにいったのだ。
そのための4×5カメラの撮影だった。
はじめ僕はテレビのニュースカメラの隣で、悠然と三脚をセットして
、暗幕をかぶり撮影することにある種の後ろめたさを感じた。
その撮影方法が、この悲惨な場所に、そぐわないような気がしたのだ。
撮影している時の気持ちは、冷静に目の前の現実を、ビル工事現場を撮るように
複写したのだった。しかし昔の写真家は皆こうやって大きな暗箱(ビューカメラ)で
撮影していたのだ。今よりも特別だった技術を駆使して、
彼等は冷静に被写体に向かい合い、撮影したに違いない。
彼等に、僕のような後ろめたさは、なかったろう。
どうしてぼくは、後ろめたかったのだろう。

リンホフテヒニカ4×5 スーパーアンギュロンf8 ベルビア+2増感

33 JAN.1995 Kobe Hyogo Japan

 焼けただれた長田の街を自衛隊員が行方不明者を捜しているのだろう。僕は道路の
真ん中に三脚を据えて八分の一のスローシャッターを切った。すると隊員たちはブレ
て亡霊のように写った。とても不気味な写真になった。
スローシャッターを切って、わざと自衛隊隊員たちをブラす。
そのやりかたを、僕は躊躇せず選んだ。
いったいそれで、記録写真になるのだろうか。
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34 JUN.1995 Kobe Hyogo Japan

半年後僕は再び神戸を訪れた。一月に撮影した場所と同じ地点から撮るためだ。その
撮り方を定点写真という。写真の撮影方法の一ジャンルだ。ただ1月とは同じ地点で
は撮れない場所が多かった。この写真は33の写真とほぼ同じ場所だ。注意深く観察し
なければ同じ場所とは思えない。
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35 JUN.1995 Kobe Hyogo Japan
震災から半年もたつと、街は一応落ち着いていた。壊されたビルも多く、空き地が広
がりすっきりした印象だった。ただガレキの巨大な山には驚いた。
32の章で、大型カメラの撮影について、後ろめたさを感じた、と書いたが、
それは僕があのときニュース写真を撮りに行ったのではなく、
場違いにも風景写真を撮っていた後ろめたさだったのだろう。
ところが、あのあと多くのメディアの、ニュース写真としての神戸が、
僕の撮った風景写真としての神戸とは、
どこか基本的に違ったメッセージを内包しているように思えてきた。
 ニュース写真の神戸は、とくに燃え盛る煙がモクモクと空を覆う長田の写真は、ま
るで空襲の後のような迫力があったが、それは事件の写真であり第三者に知らせるための
立派な報道写真だった。
しかしそのニュース写真は第三者の目、他人の目、客観的な、よそ物の視線ではないだろうか。
それにひきかえ、僕の撮った三脚を据えた風景写真は、
撮影中あれほど、場違いな気持ちで撮った写真が、
こうやって冷静に眺めると、
神戸と真正面から向かい合っているように思えた。
そこには事件より、実際そこに立って呆然と街を眺める、
当事者の視線のようにさえ感じたのだ。
僕は不思議だった。あの後ろめたさが微塵も写っていない。
そこには真摯にも、生真面目に、対象と正対している写真が存在していた。
 その時撮った写真のなかからアートディレクターの水谷孝次氏から要望され、3点
を選び、神戸救済 COME TOGETER FOR KOBEのB倍ポスターを制作することになった。
そのとき僕が見せた写真のなかの、No.32の光線漏れした写真に、
水谷氏はリアリティを感じると言った。
結局そのリアリティを表現するために4X5でとった写真を
8X10にデュープ(複製)して、その写真を
傷つけることにした。僕は自分の写真を生まれて初めて踏みつけた。コンセプトとし
ては、ある意味人災と呼べる阪神大震災と繋がった道路、それは代官山の八幡通り
の路上だったが、車に轢かせたり、蹴飛ばしたりして傷をつけた。友人のなかには表
現のためのそのようなあざとい加工を否定した者もいたが、僕はとてもリアリティを
感じ、傷のついたポスターの写真も好きになった。ポスターとはそこに映っている写
真を見せる媒体の機能ばかりか、傷をつけるこよによってメッセージ性を喚起する
作用があることを教えられた。そう、ポスターは現実を知らせるだけではなく、
考えさせるものでもあるのだ。加えられた傷によって、みる側はストレートな
写真とは違ったメッセージを想像する。

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