AYPC写真展 DEARLY
DAYS 2015
ファインダー ~抱きしめたい~
2009年から活動を始めたAYPC5回目の写真展。日常をテーマに、この巨大な空間でどんなメッセージが誕生するか、そして訪れた人にどのくらい楽しんでもらえるか。ごらんのようにスナップとセルフポートレイト、家族写真が多い。一見それらと違って見える写真もその奥にはおなじ視点が存在している。
写真は自分の身の周りしか写らいない。辺境の地の写真は、その場所に立ち、自分の日常とすることで写る。それには常日頃からありふれた日常と向かい合い「発見」をする目を鍛えることだ。毎回ワークショップでは「ファインダー」と呼ぶ批評会を重ねている。そこで知ることは、写真は世界を受け入れるツールだということだ。だから口ずさむ。♫ I Want Hold Your Hand!
横木安良夫
<開催概要>
2015年9月2日(水)~6日(日)
10:00~18:00(最終日16:00)
目黒区美術館 区民ギャラリー
おかあちゃん
[山口 優]
料理上手だけどお菓子作りはちょっと苦手だった母。幼いころ、一緒に失敗しながらドーナツを作った家は、今はもうない。あの家を出て、母はふわふわだった髪をうんと短くした。同級生達に「カッコイイ」と言われる母は、私の自慢だった。大人になって家をでた。三姉妹の中で、1番に家をでたのは私だった。一年のうち、ほんの数日間、福岡の実家に帰る。「実家」といっても、私がその家に住んだことはない。久々に会う母は、髪を伸ばしていた。
輝きながら
[赤松幸生]
娘を撮り続けて、もうずいぶん長い時間が経った。撮り始めたときは幼なかった娘も成長し、まもなく大人の女になっていく。そんなこの頃、ドキっとするほど美しく輝く姿を目にすることが増えた。当然のことながら、いそいそとカメラを取り出し、連写して作品を捕獲する。それは、この時期に身近にいられる自分だけに許された特権なのだと思う。一方で、ともに過ごせる機会は、確実に少なくなってきた。この姿を間近で目にして、写真に残せる時間は、もうそれほど長くは無いのだろう。そんな、一抹のさびしさを抱えながら、ひたすらにシャッターを切る。自分にしか見られない輝きを、1枚でも多く残していくために。
YASU
[川俣康弥]
私の場合も、子を持つ親として例外ではなく、その成長記録をカメラに収めてきた。外見上の成長もさることながら、表情や感情がみるみる豊かになっていくことを写真に閉じ込めるプロセスはこの上ない喜びであるが、私が彼としっかり向き合うことも要求されるようになってきた。その結果である写真を私自身が確認し、彼の目に映る自分を確認していかなければならない。最高の表情やシーンは残念ながら記憶の中にしかない。しかし、これら子供の成長の一過程の断片が、自分・家族・社会と、思いを巡らすきっかけになれたら本望である。
NewYork1975-Tokyo2015
[竹内幹雄]
「ハリウッドを夢見ながら、踊っているんだよ」と年老いたファミリーのオーナーはドスの効いた嗄れ声で言った。その娘はいつもGLORIA GAYNOR のNEVER CAN SEY GOODBYEをかけながら踊っていた。日比谷でON THE ROADを観た帰りゴールデン街で朝まで飲んだ。5時迄の娘に朝食にと誘った。「片つけに3,40分かかるけどいい?」と言われて手伝いながら待った。「自分でやってるケータリングの仕事が上手くいかなくてバイトしてるの」とロッテリアのセットを食べながら話しを聞いた。「仕事頑張ってね!」と別れて早朝の山手線に乗った。 40年前と変わらない僕がいた。
幻視街
[平野勝久]
目に映った光景は、時間がたつにつれ記憶の中から消えてしまう。記憶の中の光景は、抽象化された色や形へと変化し残骸化していくのは仕方のないことかもしれない。しかし、脳細胞に働きかけた光景の鮮烈さが消え去ってしまうのは悔しくて堪らない。ならば、光景に潜む鮮烈さを幻視写真として残してやろう。見えない鮮烈さを誘き出し、写真機で色と動きと形を与え紙の中に封じ込めてしまうおうではないか。さすれば、記憶の中の光景を失う悔しさも、少しは紛れるかもしれない。
Oneness~ひとつになる~
[上野まりあ]
デジタルカメラを始めた2012
セルフに挑戦した2013
AYPCでの発表はこの2回だけですが、2015年は撮り貯めた中から主にセルフのものと、お気に入りの風景写真を織り交ぜ、デジタル処理をしました。人生は予期しない出来事の連続であり、自分自身見つめ直すには時間がかかります。雑踏の中で感じた優しさや癒しの瞬間を見つけた時に、写真を撮っています。今回これらの写真を編集している時に、写真やカメラの事、過去や未来、自分の意識や心の在り方までを感じる事がありました。時間が写真の数に変わる時、私はその中で生まれ変わってゆく。その時その時の小さな感動が一つの細胞となり、沢山の「抱きしめたい」という想いによって今の私を再構築しています。
She is running
[冨岡 武]
娘がランニングに付き合ってくれるようになった。父親としては何とも嬉しい。ある日、走る姿を真横から撮った1枚に意外な発見をした。ランニングフォームがとてもきれいなのだ。この形は肉眼では見えない。写真だけで見ることができる。時代はこれからどう変わっていくのだろうか。明るく大きく駆け抜けてほしいと切に願う。このフォームのように。
Mother
[七咲友梨]
これらの写真は母を撮ったものだが、同時に鏡に映る自分自身を撮っているかのような感覚のもと、撮影は行われた。母という鏡に写るわたしの姿は、決して心地良いものではなかった。シャッターを切るほど、母と自分自身との認めがたい共通項に対峙せざるを得ない。なぜ、親子は似ているのだろうか。体中を巡る血がそうさせるのか。子が、親を見つめながら生きる術を学ぶからか。撮影を進めるうち、わたしはもはや抗うことをやめた。認めてしまえば、それはとても魅力的な部分にすら感じてきた。生きることが、少し楽になった。なぜ、わたしと母が似ているのかはわからないが、幼い頃のように、母を見つめることで、再び成長する自分を感じている。
キャンデット父
[中島ひろ子]
父との距離。ちょうどこのくらい。父の一日。晴れたら畑で一日過ごす。雨が降ったらテレビを見てる。晴耕雨読、そのまんま。仕事も真面目にコツコツやってきた人だから、畑仕事にも隙がない。季節に合わせて、畑ではいつも何種類かの野菜が採れる。父の現役時代、1年の大半は家にいなかったから、ほとんど話したことがない。今でもあんまり話さない。それでも野菜をもらいに家に帰る。それでいいと思っている。つかずはなれず。このくらいの距離が、お互いに心地いいのです。
Relative world
[三宅秀幸]
僕たちが住んでいるこの現実の世界以外に、もう1つ(いや、もしかしたら2つ以上?)別の世界があるのではないかと常々思っている。そして、その別の世界の存在によって、相対的に僕らの世界にリアリティーを感じることができる。それと似たような感覚として、地上に出来た水鏡に僕らの住む世界が写り込むと、そこに別世界が出現することによって現実の世界がリアリティーを増して見えてくる。そんな二つの世界が相対する世界観を、写真に収めてみた。これらの写真から、僕らの住む世界をよりリアルに感じていただけたら幸いだ。
今
[沖 成人]
昔、その場所には、手入れされた庭といつもきれいな部屋があった。それから時が流れた今、その場所は、庭に植物が繁茂し、部屋もすっかりくたびれてしまった。しかし、何も変わっていないことがある。それは、その一軒家に一人、彼が穏やかに毎日を過ごしていること。彼は、過去のいろんな事はもう忘れてしまっている。いや、今は一瞬前の出来事さえ彼の頭ん中からすっと消えていく。毎日好きなビールを飲み、煙草をふかしながらテレビで相撲を観るのが日課。何の不満もなく、これからの不安もなく、「今」だけを生きている。あるがままに・・・。
歩けるって。
[森 まき]
半年間わたしは、はっきりと考えがまとまらず悩みぬいていた。歩いた。ひたすら歩いた。そうしてる間に、目指す方向性と実現のための行動が頭に浮かんできた。歩くことで気づくことは確かにあると思う。ほんの短い距離でも、数日かけてあるく道のりでもそれは変わらない。
亜麻色の雲 生まれ変わる空 たっぷりの星空 あたたかな雨粒 ひっそり波立つ夜 忙しい風景、ふわり枯れていく笑顔 褪せる涙 破れた恋 思いやりのことば
カメのようなスピードの、まるでリハビリウォーキングのような半年だったけど、心の中のもやが晴れ気分もすっきり。歩けるってすごいことなんだ。だからこそ私は進み続けて拡がっていこうと思う。
Personal distance
[亀井義則]
写真だからこそ表現出来るものはなにか。見たことの無い写真を撮りたい。単純だがそんな理由だ。AYPCに入って3年が経つ。そこでは自分が生きている世界を表現しているということだった。何処で何を誰を撮るにしても愛を持ってレンズを向けている。その愛があるからこそ写真が報告という枠を超えて、見る人になにかしらの感情をもたらす。セルフポートレートは自己愛。私の自己愛はどの程度のものなのか。
Close your eyes
[石坂博司]
人が日常的に知覚機能をとおして得る情報量の8割以上が、視覚からであるといわれる。
向き合った人とのコミュニケーションは、ことばを介するよりはるかに多くの、眼から受け取る情報から成り立っている。それはからだ全体から発せられる、一瞬一瞬の連続する表情として伝わる。なかでも、心の機微は顔の表情からもっとも感じられる。
相手の表情を写そうとすると、自然と顔に近づいていく。気がつくと、顔の細部から伝わる一つひとつの表情を見つめられるところまで寄っている。それは相手が受け取っている情報を共有したいと惹かれているのかもしれない。
眼を閉じたら、心が響き合うだろうか。
Graduate
[横木安良夫]
娘が10歳になった時、代々木公園で散歩しながら、「今日は重要な話をするけど、冷静に聞くことができる?」と聞いた。娘はだいじょうぶだよ、と笑顔で答えた。僕は再婚したことと、赤ちゃんが生まれたことを伝えた。娘はよろこんでベビーシッターをしたいと言った。その夜広尾のマンションに娘を送った。玄関のブザーを何度鳴らしても応答がない。突然娘は狂ったように泣き出した。10歳とは思えないぐらい「ママがいない」と赤子のように号泣する。すぐに携帯で元妻に連絡を取ると、買い物に時間がかかり1時間ぐらい遅れると言う。それを伝えても娘は泣きやまなかった。「ママ、ママと」。その泣き声を聞きながら、ぼくは娘がはるか遠くに行ってしまったことを知った。今や父親はT君なのだと思った。娘と彼のハグが力強く僕にはそんな風にできなかったことを思い出した。その後、頻繁に会うことはなくなった。
<